院内報61-80

院内報61
 精神科診療所での経験11 コミュニケーション2
 人の言動が理解できないとき、人は世間とか常識とか普通などの言葉を持ち出してそれからずれていることを強調する傾向がある。しかし世間にしろ常識にしろ普通にしろその言葉自身がその本人だけの世間・常識・普通であり決して客観的ではありえない。にもかかわらず自分の立場を客観化するためにこういう言葉を持ち出してくる。結局は自分の考えの押しつけになってしまっている。日本人は特に主体性が弱く同調する傾向にあるため、自分の言動がかなり主観的であるにも拘わらず世間・常識・普通という言葉を使って自分は主観的ではなく、周りに合わしています・私の言動は利己的・主観的なものではなく、全体の和に沿った言動ですと主体性を覆い隠した言い方をする。しかしどのみち主観的でない立場はないのだから自分はこう考えるとか自分の家ではこうするなどの英米流言い方を習得したほうがコミュニケーションは発達するだろう。
 母親が子供のためといいながら自分の子供に対する自分の願望を覆い隠し、さも客観的な言い方をしてしまう。子どもを叱るときにも警察を登場させて自分の基準ではなく、国家の基準にすりかえて子どもを叱ったりしている。批判という言葉が感情的拒否を含むのはその言葉には社会や組織からはじきだしますという意味をもたせてしまう傾向がある。謝るという態度で世間が許す、感情的に周りに受け入れて貰えると感じており、批判・謝罪の客観性が失われていることも多い。すなわちお互い和を大事しすぎて、あまり批判せずなあなあになってしまったり、ただ形だけ謝って間違った原因をないがしろにしてしまったりする。

映画の話43 ブラザーフッド
 北緯38度線で分断された朝鮮半島は1950年北朝鮮の南進により朝鮮戦争が勃発した。ソ連・中国の援助を受けた北朝鮮と主として米国や国連軍の援助を受けた韓国軍はお互い朝鮮民族兄弟間で殺し合いをせざるをえなくなった。ソウルで靴磨きをしていたイ・ジンテ(チャン・ドンゴン)、高校生のイ・ジンソク(ウオンビン)兄弟は家族とともに大邱まで避難してきたが、そこで韓国軍に徴用された。前線に送り出された二人は洛東江防御戦の同じ部隊に配属になった。兄ジンテは病弱の弟ジンソクを除隊させるために命を賭けて危険な任務につき勲章を貰おうとした。このジンテの活躍により奇襲作戦が成功し米軍も仁川に上陸することで意気あがった韓国軍、米軍、国連軍は平壌を陥落させた。軍曹になっていたジンテは平壌市街戦のさなかに手柄をたてようとして北朝鮮大佐の捕縛を無理矢理試み成功するが、ジンテを助けようとした戦友ヨンマン(コン・ヒョンジン)が戦死してしまう。ジンソクは戦争により変わっていく兄、弟を除隊するために他の全てを犠牲にしようとする兄が恨めしかった。北朝鮮軍に対して情けをかけなくなったジンテは進軍途中坑道の奥に潜んでいた北朝鮮兵のなかに靴磨きを一緒にしていたヨンソクを見つけるがアカだといって殺そうとしたがジンソクによって止められる。韓国軍が鴨緑江まで来た時ジンテが太極武功勲章を貰う知らせが届き、ジンソクを家に帰そうとしたがジンソクはもう兄の言うことには従えなくなっていた。そのようなとき中国軍が攻めてきて同時に反乱した北朝鮮捕虜を鎮圧するときにジンテはヨンソクを殺し、ジンソクはジンテに対して怒りを爆発させてしまう。その後、ジンソクは故郷のソウルに帰り、母と兄の婚約者ヨンシン(イ・ウンジュ)にあったが、そのときヨンシンはアカと疑われて処刑されそうになり、ヨンソクを守ろうとしたジンソクも彼を追ってきたジンテもヨンソクを守りきれずヨンソクはアカとして殺され、兄弟二人とも逮捕されジンソクは北朝鮮捕虜と一緒に倉庫に隔離される。ちょうどそのころ中国軍の大攻勢が始まり、韓国軍隊長は倉庫を焼却させる命令を出した。弟が死んだと思ったジンテは大隊長を殺し、このような韓国軍に対して怒り狂って北朝鮮軍に寝返り旗部隊の隊長として大活躍する。しかしジンソクは生きていたのであり、間違って寝返ったジンテに会いに行こうとする。ジンソクは命を賭け敵軍に近づき、婚約者と弟を殺されたと思って韓国軍を殺す鬼神と成っていたジンテに自分は生きていることを示したがなかなか弟とは分からなかった。最後は弟が生きていたことに気づき北朝鮮軍に反旗を翻しそこで死んでしまう。この映画は朝鮮民族の悲劇をヴィヴィッドに描き、国同士の動きや思想が各個人の幸せを踏みにじり奪っていく恐ろしさを感じさせた。

日本神話と精神医学61 穢れと禊ぎ
 ケとは日常性、日常活動エネルギーを表しており、ケガレルとは日常の活動エネルギーが無くなってしまうすなわち死ぬことをも表している。記紀にある死の話はイザナミが火の神ホノカグツチを産んんだことにより、死んでしまい黄泉の国に行ったとある。すなわち火と産と死が穢(エ)と考えられている。この穢れの世界すなわち黄泉の国にイザナミが触れ、死の神々と共食したために黄泉の国から戻れなくなってしまった。一方イザナキはこの穢れの世界に触れ穢れてしまったが身に付いた穢れを水で洗い落として、逆に3貴子を誕生させたのである。これを禊ぎ(身削ぎ)と言っている。
 このような日本人特有の発想で、問題を起こした政治家が禊ぎをして、汚れを水に流して本当に身が清められるのだろうか? このように祓いや禊ぎは簡単にすませることが出来、人の苦しみも簡単に取り去ろうという気持ちを持ちやすいが精神的な苦しみはそんな簡単なものではない。

院内報62
 精神科診療所での経験12 感情
 精神疾患では感情が不安定になることが多い。特に感情障害といわれるそううつ病は感情がそうになったり、うつになったりする。さらに不安の訴えが中心と考えられている神経症、不安障害などがある。感情は身体の状態と不可分の関係にあり身体の疲れ、だるさとうつ気分は密接に関係している。感情には喜怒哀楽があるといわれているが、喜怒哀楽自身が身体特に神経系、自律神経系と結びついている。喜びは顔の筋肉に変化が起こり喜びの声がでたり胸も高鳴ったりする。怒りは歯をくいしばったり手がふるえたり顔が真っ赤になったり心臓の動悸も強くなったりする。このように身体の状態と不可分に結びついた感情は個人個人全く違っているが同じ人間同志共通している部分も多い。
 感情は快感、不快感に大きく分けられる。感情がまとまって落ち着いている状態は安心感である。楽しみは自分の要求が満たされ実現、実行しているときに感じる。喜びは困難な欲求・要求が満たされたときの満足感であり、身体にも比較的力強く表現される。一方いらいら、かりかり、むかむか、もやもや、むらむらなど感情、気持ちがまとまらず落ち着きのない状態がある。特に分けの分からない漠然とした不安感もある。不安は胸苦しさ、息苦しさなど呼吸・循環器系統に現れやすい。怒りは当然の欲求が満たされない時の不満の強い状態である。悲しみは自分に所属していたものがなくなる時に感じる。
 このように自分の欲求、要求、目的、価値、所属、人間関係などなどの変化によって人間の感情は刻々変化している。個々の体験が個々の感情状態を生み出すので、それを知ることにより感情も詳しく分かる。例えば3人いて他の2人が仲良くしていて自分が無視された時には妬み・嫉妬・疎外感・孤独感・被害感、怒りなど個人個人に特徴的感情が起こってくる。
 このような不快な感情が強すぎれば身体・行動・表現・人間関係・日常生活に大きく影響し、自分や周りが心配したり困ったり不利益が大きくなると心の病気といえるだろう。

映画の話4 キング・アーサー
 この物語はアーサー王伝説の最近の解釈に基づいている。紀元5世紀の始め、ローマ人に支配されていたブリテン島ではケルト民族ブリテン人のウォード族が反乱を繰り返していた。ローマに破れたサルマート族はローマに捕虜的な傭兵を差し出すよう要求され、サルマート族のランスロット(ヨアン・グリフィズ)達はローマのために小さい頃から故郷を離れてローマのために、ローマ人とウォード族の間に生まれたアーサー(クライブ・オーウェン)を隊長としてウォード族と果てしなき戦いをしていた。アーサーはローマ名アルートリウスでありローマ軍の指揮官であった。アーサーはウォード族の母親を持っていたがウォード族に殺されており、ウォード族を憎んでいた。このとき母親を救おうとして神剣エクスカリバーを手に入れた。
 一方ブリテンはゲルマン民族のサクソン族にも狙われかなりの数のサクソン族軍隊がローマ軍をブリテン島から追い出そうとしていた。もちろんウォード族にとってもサクソンは敵であった。ローマはハドリアヌスの城壁を守ってきたのだが今やブリテンを放棄せざるを得ないと考えていた。しかしサクソンが迫る地域にはローマの高官マリウスが住んでおり救出をせざるを得なかった。そこで傭兵の期限が切れ自由になるはずだったサルマート人のランスロット達に命じてローマ高官マリウス家族を救い出す命令を最後に与えたのである。アーサーはランスロットを含む円卓の騎士達に過酷な命令を下さざるを得なかった。一方ランスロット達はやっと自由の身になれると思っていたにも拘わらず、死の確率の高い命令をキリスト教徒であり高潔な人格のアーサーのために引き受けるのであった。マリウスの館ではマリウスは村人達を奴隷のように扱い、命令やキリスト教に従わないもの達に拷問して殺していた。怒ったアーサーは拷問され死にかかっていたグヴィネヴィア(キーラ・ナイトレイ)と少年を救いだし、サクソンの侵略から逃れさそうとしていた。途中マリウスがアーサーに対抗しグヴィネヴィアに殺される。まもなくサクソン族数百名が逃げるアーサー達に追いついてきてアーサーと円卓の騎士達10名足らずで氷上の決戦をして騎士の一人タゴネットが自らを犠牲にして勝利を収める。こうしてマリウスの息子と妻をハドリアヌスの城壁に連れて来て救出に成功したため、ランスロットを含む円卓の騎士達はローマから自由の身にされる。
 ウォードの指導者マーリンはサクソン族を破るためには名高いアーサー達を味方にして闘おうとしていた。グヴィネヴィアもブリトン人の血が混じっているアーサーに一緒に闘うよう薦め、彼女に惹かれつつあったアーサーは自分一人でもサクソン族と闘う決断をしたのである。アーサーの決めたことに対し円卓の騎士達は無視しようとしたが、結局はアーサーの人柄に付いて行かずを得ずウォード族と組んでサクソン族と戦い勝利を収める。こうしてアーサーはブリテンの王となった。
 英雄は常に不幸な生い立ちを持っており、それにも拘わらず天性の能力で敵や困難にうち勝つ。最後は不幸な結末になることも多い。人は人のために頑張って苦労して成果を残してくれたにも拘わらずその成果を本人が享受出来ない時に英雄と崇める。ひとは常に無償の愛や犠牲的精神を求めているということであり、現実にはなかなか見いだせない人物を求めている。

日本神話と精神医学62 神託
 崇神天皇の時疾病がはやり、天皇が悩んでいる時に三輪山のオオモノヌシが自分を祭れば疾病は治まるという神託を出した。天皇はそれを受けて従うと疾病は治まった。仲哀天皇はクマソを討つために九州に出陣したが神が新羅を制服しろといったが、従わなかったのでクマソに殺される。その妻神宮皇后はその言葉に従い男装して新羅を攻めた。政治にあたるものが政策の決定に迷った時、神託・呪術・占術に頼ることは日本史上によくある。普段は神託などには頼っていず、シャーマニズムとは言えないが、重要な決定の時には神託が出現している。
 無限の世界に対して、どんなに優れた人も人である限りすべてを見渡すことは出来ない。それどころか全く分けの分からない状態に近い。人は分かることしか分かっておらず、それ以上は運頼みである。従って指導者自身独断や神頼みというのは当然と言える。独裁者がなんでも見透かしているように振る舞うのは宗教の教祖に非常に近いものがある。人は原不安の状態にあり、何か大きな安心感を求めているが、それは不可能にも拘わらず、頼ってしまう傾向があるということを知っておくべきである。確かなものを理論的には与えられないため、確かなものを与えるかのように主張する人物、組織には頼るひとが大勢出てくるのは当然であり、そういう人間の特徴を知っておかなければならない。

院内報63
 精神科診療所での経験13 意欲
 意欲は意志と欲動を合わせた言葉であり、欲動は欲望、欲求、本能などであり、人間の精神・運動活動エネルギーを表し、車のアクセル的働きをしている。一方意志は車のブレーキ的働きをしており、欲動をコントロールし、適切な方向に適切なやり方で活動するようにする。意欲・欲動が落ちれば人は何をする気もなくなり、何をしてもおもしろくなく、感情も平坦になる。意志が弱くて欲動も少ないときには他人の意志のまま動いてしまったり、みんなの意見にただあわせるだけの個性のない人間になるか、意志が弱いが欲動が強いと本能のまま活動し我が儘に、動物的になる。
 統合失調症の一番難しい症状はこの意欲低下であり、とくに感情が平板化し、やる気をなくしてしまうことである。生き生きとした感情ややる気、意欲は通常は人間にとって自然で当たり前のものである。しかし当たり前といっても、小さい時から母親や両親の期待に応えたり、喜ばそうとしたり、学校の先生に認められようとしたり、友人にライバル心を感じて頑張ったり、他人や社会の役に立とうとしたりして意欲は維持される。統合失調症の患者さんはどうしても人間関係が少なくなり、この人間関係を通して人から貰える心的エネルギーが不足しがちになると思われる。
 うつ病の患者さんは抑うつ気分という感情のため元気が出ないのであり、うつ気分がとれて元気が出てくると意欲も出てくる。しかしうつ状態がなかなか治らず慢性のうつ状態の人がこの元気のない状態で生活し続けると意欲が落ちてきてなかなか治らないという悪循環もおこることがある。うつ状態だけでなく、不安障害なども持続し慢性化すると意欲が落ちる傾向がある。

映画の話45 LOVERS
 中国唐の時代、政治が腐敗して反政府組織が乱立していた。その最大勢力飛刀門は貧者救済で支持を集め政府・県の捕吏と死闘を続けていた。武術に優れた2人の官吏金随風(金城武)とリーダーの劉(アンディ・ラウ)は遊郭・牡丹坊に盲目の踊り子がおり、その踊りが達人の技であると聞き飛刀門の一味ではないかと探りを入れる。金が牡丹坊に乗り込みその盲目の踊り子小妹(チャン・ツィイー)に無理難題を仕向け大暴れする。そこに劉らが政府役人として乗り込み小妹を逮捕しようとしたが、牡丹坊の女将(ソン・タンタン)の取りなしで小妹が最高の踊りを見せれば許すことにした。しかし驚いたことに小妹が最高の踊りを舞った後、劉に斬りかかったのである。そして劉と小妹が死闘を繰り広げたあと小妹が破れて逮捕される。その夜小妹が拷問され獄につながれた晩、金と劉は小妹が盲目で武術も優れていたためおそらく飛刀門の前首領の娘と判断し、金が小妹を助ければ飛刀門の所に潜り込むことが出来、それで大手柄をたてようと謀り、金が小妹を連れて逃げる。追ってが次から次ぎに来るが金に取って仲間なので殺すまねをして小妹を信用させ飛刀門のところに近づこうとするが、追っ手が今度は本気で2人を殺そうとしてきた。小妹に隠れて劉にあった金は劉から政府から直接送り込まれてきた捕吏なので金との謀りごとは伝えられていないと言い、政府役人と闘わざるを得なくなった。金は小妹がとても可愛くなり、自分の名前通り風に従って本気で小妹を助けようとする。こうして2人は政府側の捕吏と闘い、政府捕吏に倒されそうになったときに誰かが2人を助けようとしているのを知る。最後に大勢の政府捕吏に捕まり絶対絶命になったとき飛刀門一味が現れて2人は助けられる。ところが金だけが捕らえられ、小妹が飛刀門の命をうけて牡丹坊の潜り込んでいた女刺客で前首領の娘ではなく目も見えていたことが分かる。さらに飛刀門の首領が牡丹坊の女将であり、金と謀りごとをした政府の役人劉も飛刀門の一味であることがわかる。金は小妹が好きになり小妹のためにここまで来たが騙そうと思って逆に完全に騙されていたことを知って絶望するが、小妹への愛は本物だったため、小妹にあの愛は偽物だったのか問いただす。実は劉は政府役人に潜り込むため愛していた小妹と3年間も連絡取らずにいたのだがやっと2人で会えたのである。しかし小妹は金を愛してしまっていたのである。小妹は首領から金を殺せと言われていたいたにも拘わらず逃がしてしまう。この光景をみていた劉は小妹に抜けば死ぬ小刀を突き刺したのである。そして小妹を愛した2人の男金と劉は死闘を繰り広げ、死闘のさなか金をかばって小妹は抜けば死ぬ小刀を自分の体から抜きその小刀を劉に突き刺し自分も死んでしまう。
 やはりチャン・イーモウ監督の造った実に美しい映像は映画英雄と匹敵する。さらに組織の一員として生きることと個人の愛を貫くことの葛藤、騙し騙されながらも愛のみが普遍的であることなど見所はしっかり用意してある映画である。

日本神話と精神医学63 開く
 アメノウズメは通路を開く神である。一方アメノウズメと対になっているサルタヒコもちまたの神であり、分かれ道を守っている。アメノウズメは女性の身体の神秘的な通路ともいえる女性器を露出して、八百万の神々の口を開いて笑わせた。ついで天の岩屋戸を開かせ、アマテラスの口も開かせた。アマノウズメがもたらした神々の笑いは闇の世界を明るい世界に変えた。アマノウズメの女性性によってアマテラスは自身も成長したと言える。天孫降臨のときアモノウズメによってサルタヒコが天孫の案内役になったことも芦原中国を開くことと関係している。
 このように新しい事態の出現は女性性や笑いによって出現している。人の気持ちを新しくするには女性性、生産性や笑いなどが大いに役立つということだろう。

院内報64
精神科診療所での経験14 認知
 心療内科・神経科・精神科の診療において認知という言葉が最近よく使われるようになってきた。認知とは文字の意味から解釈すれば認めて知るということだが、岩波の辞書では外界を認識することと書いてある。すなわち認知とは外界の物質や現象を感覚し、自分の記憶・体験と照合し知覚し、自分が行動するための思考・理解・判断・決定の条件となるものである。
 統合失調症の本質が認知障害であるとか、最近新聞にのったことだが痴呆症を認知症と言い換えようとか言われていたりする。
 統合失調症におこる妄想は現実の出来事に対する判断の間違いだが、判断も大きな意味で認知機能の一つと言える。また幻覚は知覚の間違いだが妄想とともに本人には間違いが理解出来ないのである。誰でも自分の感覚、判断以外に人の感覚や判断を体験し得ない(相手のことが分かると自分が思っているだけである)ので相手を絶対正しいと言い切ることは出来ないが自分の感覚・判断は自分のものなので、自分だけにはその精神機能・認知機能は確かなのである(勿論それだけでは客観的な現実や事実にはなりえない)。しかし人が客観的な外界を体験することは不可能なので、客観性を少しでも獲得するためにここに人とのコミュニケーションが不可欠となる理由がある。
 痴呆症では記憶を筆頭にすべての認知機能に障害が出現してきて当然コミュニケーションその他の活動・行動がうまくいかなくなる。しかし痴呆症の認知状態を知ることによってコミュニケーションが深くなるのは当然のことである。

映画の話46 笑いの大学
 時は昭和15年、警察庁保安課の検察官・向坂睦男(役所公司)は芝居の台本を時勢柄厳しく校閲する。彼自身は満州事変、支那事変など戦争が拡大していく中、「芝居などなくてもよい」「笑いなど必要がない」と考える硬骨漢であった。
 そこに劇団笑いの大学の座付き作家・椿一(稲垣吾郎)が自分が書いた芝居の検閲を受けに来る。
 向坂はこの台本は話にならない。場所の設定は外国だし、登場人物も外国人であるとかいって、始めから喜劇を否定し許可する気はさらさらなかった。しかし椿はどうしても上演を認めて貰おうとし検閲官の指示に従いながらも、台本を前よりも一層面白くする努力を必死でするのである。お国のためという言葉を入れよとか、登場人物に警察官を入れよとか難癖を付けられながらも椿は台本を一層面白くしていくのである。冗談も考えたことのない堅物の向坂は、椿の台本に対する真面目な姿勢に加えてだんだん面白くなる台本に感動し、ふたりは一緒になって夢中でこの喜劇の台本を面白くしていくのである。検閲中出てきたお国のためをお肉のためと言い換えたり、チャーチルやヒトラーに寿司をにぎらせたり、こりゃまた失敬がさるまた失敬と言うことなど言葉を言い換えることで笑わせたり、芝居の中で好きなもの同志が接吻をするのをなんども邪魔をされることによって観客を笑わせられることを向坂は学んだのである。椿は検閲最後の日に最高の傑作を作り上げ向坂にみせた。
 向坂は今までにない最高の面白さだと認めた。しかし椿はこのとき赤紙(召集令状)を貰っており戦地に行かなければならなかったので検閲の必要はなくなったというのである。最後に向坂はこんな面白い芝居は必ず上演しなければならないので椿に生きて帰ってこいと告げる。
 面白さは紀記ではアマテラスが岩屋戸から出てきたときに笑い・踊り・騒いでいる神々の顔を照らし面を白くしたという話からでている。一般的に笑いは失敗しそうもない、変わったことが起こりそうもない人物や出来事がちょっとしたことで失敗したり、変わったことがおこってしまったときに、それを見ているものが優越感を感じて起こる。戦争中にしろ、大不況中にしろ厳しい世の中でも笑いをもてる精神状態は人々に心身ともかなりよい影響を与えるだろう。

日本神話と精神医学64 フツヌシ
 イザナギがカグヅチを切ったとき化生したイワツツノヲ、イワツツノメの子として生まれ、タケミカヅチと同様葦原中津国平定時の主神である。
 フツヌシは物部氏により祭られ、タケミカヅチは藤原氏により祭られていたが、藤原氏が栄え物部氏が衰退したため神話における重点順位が逆転したと思われる。刀の名前としてサジフツ神、ミカフツ神と言われており、それらは物部氏の氏神をまつる石上神宮に鎮座している。
 このようにフツは刀を研ぐ時にでる音から来たとも言われているが、刀や武力と関係する言葉であり、フツヌシは大和朝廷において武力を特徴とした物部氏の氏神である。
 氏族が奉祭する神の影響力もその時々の氏族の朝廷における力で左右されており、このように神ですら浮沈があるので人間には言わずもがなであろう。

院内報65
 日常精神科臨床でよく使う説明1 井戸水の例え
 このうつ病に関する例えは精神科医の先輩から伝わってきている。うつ病は心身の活動エネルギーの低下する病気であると考えられている。このエネルギーを地下水に例えれば、うつ状態は地下水がなくなり井戸水が枯れてしまった状態である。井戸水がなくなっているにも拘わらず執着気質で頑張りやは何かしていないとおれないので、井戸水がないにも拘わらず水を汲み続ける。しかし水がないのに汲めるわけがなく、汲んでも空っぽであり空っぽだとさらに頑張って汲もうとする空回り状態が続く。こうして心身ともに疲弊してしまったのがうつ状態といえる。
 ではどうしたらうつ状態が改善するのか?この答えは簡単に想像できると思うが井戸水を汲むのをやめればよいのである。そうすれば時期によっては地下水も回復し、井戸水も貯まってくるのである。井戸水が貯まっても安心してはいけない。まだ底が浅いのである。あわてて活動を再開して水を汲めばすぐ空っぽになる。すなわちうつ状態は再発するのである。従って地下水が少ししか貯まっていないときは動き続けられると勘違いしないで、この時期もう少し辛抱して長い目に休んで貰った方がよいのである。

映画の話65 いま、会いに行きます。
 母秋穂澪(竹内結子)が亡くなって1年たち、息子の佑司(武井証)は父巧(中村師童)に「人が死んだらみなどこに行くの?」と尋ねる。巧はママが書いた絵本の中にはアーカイブ星にいると書いてあったじゃないかと答える。さらにその絵本の中には雨の季節にママは帰ってくると書いてあったのである。佑司は勿論巧までもその話を信じたかった。
 巧は司法書士事務所に勤めているが、妻が亡くなってからは当然元気がないままである。巧もこころの中では澪を待っており雨が降る季節を期待している。学生時代にパニック障害?と思われる病気がおこるようになった巧は診療所の野口医師に「やはり澪さんに戻ってきてほしい?」と聞かれ巧は「僕は澪を幸せにしてやれなかった。戻ってきてくれたら一緒に生きてよかったという思いをもう一度させてやりたい。」と答える。妻がいない上に自分も人込みや乗り物の中で倒れてしまう病気を抱えて、巧は日常生活もしっかり出来ない状態で息子佑司にも心配をかけていた。
 雨がふったある日息子と2人で澪との大切な思い出のある場所に行った。そこで澪と出会うのである。澪は何も覚えておらず、自分はどうしてこの家族の一員になったのかを知りたくなった。澪は何も覚えていないがもう一度始めから3人で生活をしていけばいいのだと巧は考えた。巧も佑司もすごく元気になり澪が来てからは家も勿論見違えるようになった。澪は巧とどのようないきさつで結婚したのかを尋ね巧は答えるのであった。高校2年生の時2人は始めて出会って同じクラスで席もとなり同志であった。始めは巧の片思いだと思っていたこと、巧は陸上の選手で活躍していたこと、卒業式の日にサイン帳をもって僕の所に澪がきてくれたこと、その時巧のペンを澪のサイン帳にはさんだままわたしたこと、澪は東京の大学・巧は地元の大学にすすんだこと、しばらくしてペンを返すということで2人は出会い愛し合うようになったこと、しかし大学2年の時巧はパニック障害?を引き起こし交際をやめようとしたことなどを話した。しかし巧は澪を忘れられず、澪に会いに行ったとき澪が他の男子学生と仲良く話しているのみて澪と会わずに帰るのである。その姿をみた澪は巧が私に会いに来てくれたと感じ後を追うのだがこの時事故にあう。
 20歳の時の事故による意識消失のなかで澪は未来にジャンプして自分が亡くなった後の夫と息子の2人だけの家庭に記憶を失ったまま戻り3人で生活する夢のような体験をするのである。やがて雨があがる季節に自分が戻ることを知った澪は子供の佑司のために成人するまでの誕生日のケーキをケーキ屋に注文し、自分の現れた場所から2人に別れを告げて去っていく。
 この映画がこころに残るのはもう死んでしまって会えなくなった人に会えるという奇跡があること、死んだ人のこころと今もつながっていること、お互い相手を思いやっていること、結局は死んでしまったものは戻ったままにはならない哀しさ、哀しいこころと雨という自然が調和していることなどであろう。

日本神話と精神医学65 王家、権威、受容
 人が人を受け入れるのは人の外見や言葉だけでは充分ではない。例えば話しだけは立派であっても中身が伴わないことも多々ある。そのため手っ取り早く中身の確かさを確かめるためにこれまた歴史や伝統、権威などを象徴するシンボルを用いる。
 神話では王家であることを示すのに3種の神器「八尺勾玉」「八咫鏡」「草薙の剣」が使われる。これらは天孫ホノニニギが高天原から降り立つときにアマテラスによって与えられた贈り物である。この3種の神器はそれぞれマツリを表す鏡、タタカイをあらわす剣、ものをウムことを表す玉として国家の3機能のシンボルでもある。権威は形・伝統だけでなくその意味が充分に伴って始めて強固にされるのである。
 精神は外見より中身に近いが、精神と深い結びつきのある言葉は意味・中身が広く・深く味がなければこれまた形だけになり、ひとを納得させるためには意味・中身の広さ・深さ・味が非常に重要になり、言葉に中身の広さ・深さ・味が伴って始めて意味あるコミュニケーションが可能となる。

院内報66
 日常精神科臨床でよく使う説明2 病気は治りますか?
 通常の精神科の病気は本人の体質・気質・性格と本人の現在の諸環境すなわち家族関係・人間関係・学校・仕事場などとの相互作用によって起こってくる。一般的にどんなにこころの病気になりにくい人でも環境が悪ければ病気になる。どんなにこころの病気になりやすい人でも環境がよければ病気にならない。本人の体質・気質は両親から受け継いでおり自分で決めたものではない。両親を自分で選んだわけでもない。日本で生まれ、その地域で生活し、小さい時は学校に行くことも自分では決めていない。偶然の出会いで友達も決まる。こうして出来てくる性格は本人の意志で創られたとは言えず、偶然出来てきたという一面がある。このように環境も性格も必ずしも本人の意志で創ったわけでないので、本人の病気は決して本人のせいでないことも多く、周りも本人を単純には責められないし、自分自身も自分を責めすぎるのは間違っている。
 あるストレス状況下でこころの病気になった人は病気になりたくてなった人はいない。このようなストレス状況下で自分を治そうとすなわち変えようとしてきたにも拘わらず、調子が悪くなったのである。従ってこころの病気を治すには自分だけを変えて治そうとするなどの今までのやり方を変える必要がある。現在の環境を変えること、自分の体の状態を薬物を利用して改善すること、自分を責めすぎないで自分の病気を治していける過ごし方をみつけることを通して自分の自然治癒力も一層大きくなって治っていく、否、治していける。
 このように今までのやり方を続けたり、ただ薬をのんでいるだけで病気が治ってくると考えるより、医者と相談しながら薬を利用して体調を変え、自分の過ごし方や人間関係を含む環境を調整することにより病気を治していくという考えも相当重要である。

映画の話47 北の零年
 明治の始め淡路の稲田家は徳島藩との確執から明治政府により北海道への移住を命じられた。先遣隊には家老の堀部賀兵衛(石橋蓮司)、小松原英明(渡辺謙)などがいて荒地の開拓に取りかかっていた。続いて英明の妻志乃(吉永小百合)と娘の多恵をのせた船も半月がかりで北海道静内にやってきた。これから厳しい北海道の開拓を始めるのである。ところがその次の船が難破して83名の人と財産を失い、以後人は来なくなったのである。さらに廃藩置県により開墾した土地は政府の管轄になり、失望と絶望のなか英明・馬宮伝蔵(柳葉敏郎)ら家臣達は髷をきってこの地にふみとどまる決意をした。やがて冬が近づき食料が不足するなか商人持田倉蔵(香川照之)が自分の利益のため救いの手をさしのべる。さらに英明はみんなの期待を背負ってこの地で育つ稲を探しに札幌まで行くのである。半月以上たっても英明は帰らずその間に志乃は持田に襲われそうになった。この危機をアイヌとともに暮らす男アシリカ(豊川悦司)が救う。アシリカは自分が助けられずに死んだ自分の妻と子供の面影を志乃と多恵の中に見るのである。一方馬宮の妻加代(石田ゆり子)は馬宮の子供をお腹に宿し、空腹のため倉蔵に体を許す。志乃と多恵は仲間から夫英明が裏切り戻ってこないと責められながらも英明を信じて雪の中を夫を探しに行く。しかし遭難一歩手前で異国の男エドウィン・ダンに助けられる。
 数年後志乃と多恵(石原さとみ)はダンに助けられ馬を育て牧場を経営していた。またアシリカと仲間のアイヌは彼女達を助け、英明のいなくなった家を守ってきた。この年やっと育ち始めた稲がイナゴの襲来であらされ、人々に不安が渦巻くなか志乃はこの地の長に呼び出される。この地の長には持田がなっており、馬宮は馬の世話役、堀部は持田の給仕になっていた。持田は政府が土地の男を徴用しない代わりに志乃の馬を差し出せと言って来たと言う。志乃は抵抗出来ないとなかばあきらめていた。
 政府の役人として馬を引き取りにこたのは他でもない数年間音信不通の英明だった。英明は自分が病気をしたこと、ある人に救われたこと、今はその人と家族をもっていることを語り、馬を引き渡すよう志乃に頼んだ。英明は志乃の牧場に来て馬を引き取ろうとしたとき堀部、馬宮、その他の仲間達が役人に殺されてもかままない気持ちで抵抗しようとした。そのとき全ての馬が急に牧場から逃走した。馬を逃がしたのはアシリカ実は会津の藩士で五稜郭の戦いの生き残りであった。アシリカは死を覚悟していたが志乃に死なないでと言われ抵抗をやめ英明に捕まえられる。英明は馬にしてやられたといって去っていく。
 しばらくしてアシリカの友のアイヌが馬を連れ戻してきた。こうして志乃は仲間の絆を感じて牧場経営に再出発するのである。

日本神話と精神医学66 八坂瓊の勾玉
 昔、丹波の桑田村にミカソという人と足往という犬がいて、この犬がムジナという獣を喰い殺したところ、その腹のなかから八坂瓊の勾玉が出てきて石の上神宮に納められたという伝承がある。三種の神器の剣がヤマタノオロチのなかから出現し、勾玉がムジナのなかから出現しているのは、神聖なものは霊的な動物のなかから出現するということである。石の上神宮は物部氏が管理しており、奇しきものを管理してきたのが物部ということになる。物部のモノは奇しきという意味ももっており、物の怪・物悲しい・物寂しい・物忌み・物々しい・オオモノヌシなどで使われているモノである。このように神聖と奇とモノが結びついており、日常的な通常の世界とは違った世界・精神は神聖・奇・モノと関係し、逆説的にこれらの言葉自身が日常的なものになっている。
 精神症状もある意味物凄い体験であったりするが、意味深い体験でもあろう。

院内報67
 日常精神科臨床でよく使う説明3 薬の副作用について
 薬物は身体に作用し、細胞や組織・器官の働きに影響する。一般的には腸などから吸収されて、血管に入り、全身に広がり、標的部位に作用し、肝臓などで解毒・代謝され、腎臓などから排出される。薬物は主として機能・働きに影響し、蓄積して細胞・組織・器官などを障害することは少ない。薬物の副作用を心配する必要はあるが、心配しすぎて薬物の作用・利点を利用出来ないとその人にとって損失も大きい。
 基本的には副作用のない薬はない。逆に副作用のない薬は効かないとも言われたりする。しかし重要なことは副作用にも色々あり、怖い副作用と怖くない副作用がありこれを区別する必要がある。もし怖い副作用が起こりやすいのならそもそも薬としては使えない。ここに国・製薬会社・医療機関が信用できるかどうかの問題がある。確かに今まで問題をおこしているが、薬すべてが信用できないかといえばほとんど信用できると言えるであろう。
 薬物を飲んで副作用が起こったときには、それが怖いものかどうかは医者と相談してもらって、仮に怖いものであればその時点で中止すれば基本的には後遺症など残すことはほとんどないと言える。
 もう一つ重要なことは薬物を飲むことは、患者さん一人一人が薬のイメージも飲むことであり、それがその人のこころに影響を与えて自己暗示などの心理的作用も大きくなる。従って薬についての正しいイメージを医療が提供しなければならないし、患者さん自身もそのことすなわち薬の心理作用も知っておかなければならない。

映画の話48 アレキサンダー
 アレキサンダーの友人で部下の将軍、後のエジプト王プトレマイオス(アンソニー・ホプキンス)は自分が死ぬ前にアレキサンダー王を振り返り記録に残す。紀元前356年マケドニア王フィリッポス(ヴァル・ギルマー)とその妻オリンピアス(アンジェリーナ・ジョリー)との間にアレキサンダーは生まれる。マケドニアを建て直し、荒々しく粗野な父フィリッポスと気性が荒く、ディオニュソスを信仰する母オリンピアスは仲が非常に悪く、アレキサンダーに母は「お前はゼウスの子。父はお前に王位を継がせるとは限らない。しかしお前が世界の頂点に立つのだ。」などと語り不安な少年時代を過ごした。アレキサンダーは武芸にも優れ、学問もアリストテレスに習い、ヘファイステイオンとの同性愛的感情やプトレマイオスとの友情を強く築き、孤独と愛を知る。この頃父も乗りこなせなかった荒馬プーケファラスと出会い乗りこなし、みんなに一目を置かれる。ある日フィリッポスはアレキサンダーに宮殿の地下に描かれたギリシャ神話の壁画を見せ、アキレスなどの栄華と挫折を繰り返す悲しい過酷な王・英雄などの運命を語る。その後フィリッポスは新しい妻を迎え、オリンピアスは我が子アレキサンダーの王位継承の危機を感じる。しかし紀元前336年フィリッポスは何者かに暗殺され、アレキサンダーは若干20歳でマケドニア王となる。
 ただちにギリシャやエジプトを征服し、逆らう者には虐殺従うものには慈悲をあたえ、人々からゼウスの子と崇められた。紀元前331年いよいよペルシアの大王ダレイオス王とガウガメラで闘う時が来た。アレキサンダー軍は4万人、一方ペルシア軍は25万人とても勝ち目はなさそうであり、将軍(大王と同格の貴族)のヘファイスティオン、カッサンドロス、パルメニオンたちに制止されたがが、アレキサンダーは果敢に攻め込み、大けがをしながらもダレイオス王の目前まで迫り、恐れをなしたダレイオス王は逃走する。ここに世界最強のペルシア帝国が滅び、アレキサンダーはバビロンの門をくぐった。アレキサンダーは従順なダレイオス王の家族やアジア人にもギリシャ人と同じように接したのでアジア人を蔑視する将軍・部下たちは不満を抱いた。しかしアレキサンダーはヘファイスティオンには世界征服の真の目的を伝えるのである。征服した国々・人々を解放し学問を広め精神も解放するということだった。
 アジア侵攻の途中、アレキサンダーはバクトリア王女ロクサネ(ロザリオ・ローソン)を第1夫人にしたことにより、アジア人との子供が王になることは許せないとパルメニオン(ジョン・ギャバナン)たちは抗議した。ある日アレキサンダーはパルメニオンの息子フィタロスに毒殺されそうになったためフィタロスを処刑し、パルメニオンの同志クレイトスにパルメニオンをも暗殺することを命じ、反乱の芽を封じるのである。こうしてインドにまで達したアレキサンダーの飽くことのない征服欲は、今度は将軍や部下達に阻止され、バビロンに戻ることになる。しかし威信に傷のついた大王はインダス南下の途中マッロイ人との戦闘で捨て身で敵の城壁に飛び込み瀕死の重傷を負いながらも立ち直りカリスマ性を取り戻した。バビロンに戻ったアレキサンダーはさらに地中海に進もうとしたが、突然の病に倒れた。
 アレキサンダーの飽くことのない征服欲は父フィッリポスの征服欲、母オリンピアスの我が子アレキサンダーが世界の頂点になることへの期待と邪念、アリストテレスの世界観・人間観の吸収、同格の貴族・将軍たちとのディベイトからの反発としての従順な異国人への寛容・慈悲・愛情、生まれつきの好奇心・闘争心などなど考えあげたらきりのない出来事が影響しているのであろう。この映画はその征服欲の原因・誘因の一部をかいま見させてくれる。

日本神話と精神医学67 三神
 日本神話には奉祭氏族のない住吉・住之江3神ソコツツノヲ、ナカツツノヲ、ウワツツノオ、宗像3神タキリビメ、イチキシマヒメ、タキツヒメ、阿曇の連の奉祭するワタツミ3神などが出てくる。志賀島の阿曇氏は沿岸漁業、住吉系や宗像氏は沖合漁業をしていたらしい。沿岸漁業の阿曇氏は岸沿いに移動して信州まで入っている。
 漁業系の3神以外には3貴神アマテラス、ツキヨミ、スサノヲやニニギとコノハナサクヤの子ホデリ、ホスセリ、ホヲリなどがいるが、ツキヨミやホスセリは実体があまり伴わない中空構造とかんがえられている。一方漁業系の神が揃って3神なのはもともと海人族には上中下3分し並列する神話が多いらしい。
 2は私とあなた、夫婦など相対的違いなどを意識しているが、3は私とあなた以外に彼、彼女、それが出現したり、夫婦に子供が出来たり、普遍性、世界的絶対的広がりを表す傾向がある。
漁業系のひとはそういう広がりを感じやすかったのかもしれない。
 精神医学において母子密着・母子カプセルなどと問題視されるが、父親が役割を果たしたり母親の第3者とのつきあいが母子に広がりや普遍性をもたらすのは言うまでもない。

院内報68
 日常心療内科・精神科臨床でよく使う説明4 病気ですか?病気じゃありません!
 最近は患者さんの診断に性格診断がされるようになってきている。すなわち人格障害が病気として捉えられつつある。性格にしろ病気にしろどこからどこまでが障害・異常でどこからどこまでが正常なのかは判断が相当難しい。本人が自分を病気だと思っても心配性などの性格上の問題であることも多い。また家族が本人を病気だと考えても、本人は自分のことを病気だと思わないことも多い。病気や人格障害などの病気・障害は教科書で定義されているが医者一人一人の経験や理解の仕方が違っているため診断は微妙にずれるのは当然であろう。心療内科・精神科の病気・障害は人間関係で決まる一面がある。本人が困っているか、周りが困っているか心配しているかすなわち典型的には身体症状・自傷・自殺など自分の身体の危機あるいは他害・迷惑など他人への悪影響などにより病気・障害は判断される。
 特に治療上難しいのは本人が病識のないときである。しかしよく考えると自分が困っていないときは簡単に自分が病気であるとは思わないのは当然である。家族や周りが本人に病気だと言えば言うほど本人は反発するのもよくあることである。人間は自分が見えていることしか見えないし、自分が聞こえていることしか聞こえない。自分が分かることしか分からないし、感じることしか感じない。そういう自分の体験・経験を現実・事実と取り違えていることが多い。現実・事実は一人一人全く違った体験・経験をベースにして相互のコミュニケーションを通してのみ得られるものである。従ってコミュニケーションがなくなれば自分の体験・経験を現実・事実として錯覚してしまいやすい。コミュニケーションがないと自分だけの感覚、自分だけの考えすなわち誰にも分かって貰えない感覚・考え(幻聴や妄想など)が強くなり病気の症状といっていい出来事が起こる。


映画の話49 きみに読む物語
 ある療養施設でたたずまいも美しく暮らす初老の女性(ジーナ・ローランズ)のところにデューク(ジェームズ・ガーナー)が定期的にやってきてある物語を読み続ける。デュークが一生涯誇れることは一人の女性を愛し続けたことである。
 渡り鳥が飛来し、朝霧にかすむ美しい川のあるノース・カロナイナ州シーブルックに1940年10代のアリー・ハミルトン(レイチェル・マクアダムス)が家族とともに一夏を過ごすためにやってきた。彼女は大都市チャールストンの裕福な家庭の娘である。カーニバルの夜、アリーを一目みて惚れてしまった地元の成年ノア(ライアン・ゴズリング)は彼女に「君が望みさえすれば何にでもなる。」などといってやや強引に口説く。アリーもノアに惹かれていく。ある暑い夜郊外の古い家にアリーを連れ出したノアはこの家を白い美しい家に改築するの僕の夢だと語り、ノアと出会って絵を描くことが自分の夢と自覚したアリーはノアにアトリエを作ってほしいと頼む。2人は将来を誓いあったが、彼女の両親は材木工場で働くノアとの交際を認めず、彼女をチャールストンに連れて帰る。
 夏は終わりアリーは学校に、ノアは第2次世界大戦の兵士として出征し、お互い引き裂かれていく。ノアは365日毎日手紙を書いたがアリーの母親に妨害されアリーに届かなかった。アリーは徐々にノアを忘れ、戦時下ボランティアで看護した兵士ロン(ジェームズ・マーデン)と新たな恋いに落ちる。ロンは富裕な弁護士で両親も大賛成である。一方ノアは失意のなか、あの郊外の家を改築しアトリエまでつくったのである。その家が売りに出され、家の写真と一緒に写っているノアを見たアリーは婚約者ロンにしばらく留守にするといってノアに会いに行くのである。その家とノアを見たアリーはすごく動揺する。
 「アリーはどちらを選んだの?」と無邪気に質問する初老の女性。
 2人は再開し手紙が届かなかったこともわかり、2人は再び結ばれる。アリーの母親も娘にノアからの手紙を返し、母親自身が過去駆け落ちまでしようとした男性の現在の落ちぶれた姿を見せる。
母親は経済的な問題を伝えたかったのである。たとえ愛は金には代えられないとわかっていても。
 さてデュークが物語を読み効かせてきた初老の女性が認知症に罹っているアリーであることがわかり、デュークはアリーに2人の愛を思い出させたくて仕方がなかったのである。認知症のアリーは時にデュークを思い出すがすぐに忘れてしまいデュークはいつもがっかりする。デュークはノアとアリーが結婚し愛し合ってきたことを認知症のアリーに思い出させたかったが、心臓病で死期の近いデュークはある晩認知症のアリーと同じベッドで死んでいたのである。2人は永遠の愛を確かめあっているようだった。
 人間にとってとても大事なものが愛であり、精神機能がたとえ落ちていても愛などの奥深いたましいに触れるものがひとを感動させる。


日本神話と精神医学68 気と毛と木
 書記に韓国に渡ったスサノヲがひげを抜いたら杉に、胸毛が檜に、尻の毛がマキに、眉毛が樟になったと書かれてある。これは毛が木になったという話である。すなわち木は大地に生えた毛という印象をもっていたということだ。
毛国(シモツケ、カミツケ)は木と関係していると思われ、鬼怒川(ケヌガワ)、三池(ミケ)なども同様だろう。
 さらに毛は気とも関連しており、毛は体から外に出現したものであり、気もこころの外に出現してきたものという意味があり、まさに木も大地から出現している。毛、気、木は生のエネルギーを意味として内包していることも相互に似かよっている。人間は精神現象を自然現象に例えたり、自然現象自身類似点を読みとったりして理解を深めてきている。

院内報69
 日常心療内科・精神科臨床でよく使う説明5 重症でしょうか?経過はどうでしょうか?
 心療内科・神経科・精神科の病気は一般的には不安障害などの神経症、躁うつ病などの感情障害、統合失調症の順に予後が悪いと言われているが、実際はかなり違っている。神経症でも強迫性障害や性格・抑うつ神経症などは治りにくい。感情障害でも躁病はかなり難しい側面がある。統合失調症でも当然同じ病名がついていても予後はまったく違う。統合失調症は人間関係が得意でない人におこりやすいが、人を信用していない人と人を求めている人とでは当然予後が違ってくる。人を信用しないということは医者を信用しないこと、薬を信用しないことにつなっがて、当然自分だけのやり方でうまくいかずに病気になってっきたにも拘らず、自分だけで治そうとして悪循環に陥りやすい。
 このように人を信用できることが、予後と関係している。すなわち人を信用する、信用できるということは安心感を生み出し、病気に対する治癒力そのもである。
 人格障害は病気というより性格の障害なので、性格という言葉自身に変りにくいという意味が入っている。人格の場合だけではないが、医療は治すためにあるだけではなく、状態・症状の悪化を防ぐという意味もあり、このように多くの人には気づいてもらえない、悪化を防ぐという重要な意味も医療にはある。病気は治すだけではなく、病気と付き合うことも大事である。

 映画の話50 アヴィエイター
 20世紀始め頃、石油掘削機会社を受け継いだハワード・ヒューズ(レオナルド・ディカプリオ)は巨万の富を使って映画「地獄の天使」のクライマックスである空中戦を実践さながらに撮影しようととして、MGMの大御所ルイス・B・メイヤーに足りないカメラを貸してくれとたのむが簡単に断られてしまう。ハワードは強迫的な完璧主義者で自身の広報係ジョニー・メイヤー(アダム・スコット)になんとしてでもカメラを用意しろという。さらに空中戦に雲がいるということだけでUCLAの気象学教授(イアン・ホルム)を雇う。映画が出来た頃、史上初のトーキーを見たハワードは全資産を担保に入れて出来上がった映画を音声入りに撮り直した。映画のプレミアム上映の時、主演女優ジーン・ハーロウ(グウェン・ステファニー)をエスコートし、前評判も高かったのもあり、上映後万雷の拍手が鳴り響きハワードは一躍ハリウッド・セレブリティになった。
 飛行機にも興味を持っていたヒューズは飛行機会社ヒューズ・クラフト社を設立し優秀なエンジニアをやとって新型飛行機の開発に挑んだ。さらに航空会社TWAを買収し航空産業にも進出するのである。ちょうどその頃有名女優キャサリン・ヘップバーン(ケイト・フランシェット)と夜間飛行などのデートをして深い仲になる。この頃完成したジェラルミン製新型飛行機を操縦して時速566キロの世界記録も樹立する。有名人としての苦しみをキャサリンと分け合い、お互い愛し合う。しかしキャサリンの実家に遊びに行ったときにみせた全く別の顔のキャサリンにハワードがとまどったり、ハワードが別の女性とデイトするのにキャサリンが激怒したり、ハワードが大型飛行機ハーキュリーズの開発のみに集中したりして2人の間に大きな溝が出来、キャサリンは結局俳優スペンサー・トレイシーを愛するようになり、別れることになる。ハワードはキャサリンと別れたがすぐに次の恋愛相手である15歳のフェイス・ドマーク(ケリー・ガードナー)と付き合いだした。
 仕事上ではTWA社長との会食の途中、パンナム社長のホアン・トリップ(アレック・ボールドウィン)と知り合い、ハワードは国際線に乗り出す決意をし、ヒューズとホアンは闘うことになる。ホアンは友人の上院議員オーウェン・ブリュースター(アラン・アルダ)を巻き込みパンナム社の独占を続けさせる「エアライン・コムニティ」法案を通させようとする。
 プライベートの問題では妻のあるスペンサー・トレイシーとキャサリンのゴッシプ写真が雑誌に出るのを聞いたハワードはキャサリンに対する別れ際の冷たい態度を謝罪する気持ちでその雑誌を買い占めるのである。さらにハワードの映画「ならず者」がジェーン・ラッセルのバストを強調しているとの理由で上映禁止にされる。悪いことに、新しい恋人エヴァ・ガードナーとの付き合いに嫉妬したフェイスが、ガードナーと一緒にのっていたハワードの車にぶつけてきたりしてゴッシプ写真の格好の餌食になった。追い打ちを駆けるように自らデザインした偵察機を自ら運転するテストの日に右プロペラが故障して墜落しハワードは瀕死の重傷を負う。体だけでなく彼の運命も瀕死のままであり、病床に米空軍からの戦争が終わってハーキュリーズはいらなくなったという知らせがあった。退院後空軍の軍用開発資金を不正に使ったというブリュースター上院議員が差し向けたFBIの強制捜査もあり、ブry-スターは公聴会をするという脅しをハワードに掛ける。ブリュースターのTWAをパンナムに売れば公聴会をやめてもよいという働きかけにハワードは断固拒否する。
 ハリウッドに戻ったハワードは緊張の糸が切れたのか、強迫症状が悪化し何日も試写室に閉じこもり強迫儀式と独り言の病的世界に埋没する。そんなハワードを心配して見に来たのが、写真の件を感謝していたキャサリンだった。キャサリンはハワードに会えなかったが、ドア越しのキャサリンの言葉はハワードに勇気を与え立ち直らせる。公聴会では逆にブリュースターとパンナムの癒着をあばき、ハーキュリーズ完成のため、空軍の資金だけでなく私財も投入していることをうち明け人生の全てを賭けたハーキュリーズを完成させると公言する。戦後まもないある日ハーキュリーズはハワードの果敢な挑戦に対する報償であるかのように大空高く飛ぶのである。
 これだけの意欲、挑戦性、冒険心、勇気を持つには通常の精神力では不可能だろう。ハワードも母親に強迫的な細菌恐怖を植え付けられており、この完璧・強迫症状が常人を越えた人生をハワードに与えたと言える。

 日本神話と精神医学 星、月、夜、闇
 日本神話では星の話が少なくて星の神はカガセオと呼び捨てにされている。夜の食す国を支配する月読みの命自身の存在感も薄い。古事記・日本書紀の編集された直前の天武・持統期は道教、陰陽道、天文道などが非常に盛んで神話に星の話が少ないのは謎らしい。心理的には日本人は臭い物にふたをする傾向があり、死後の世界も神話ではあまり描かれていない。同様に夜の世界も日本人にとってはふたをしてしまう傾向があったと思われる。すなわち日本神話の筆頭神はアマテラスであり、太陽であり、お天道様といって日本人に崇められ続けてきており、闇・夜・月・星は負の対立概念を持ちやすくふたをしやすいのだろう。
 日本の古代首都の大和は山に囲まれていて星を見なくても方角がわかり、星も重要視されなかった可能性もある。
 このようなマイナス面を意識しにくい日本人の心理的構造は事なかれ主義を生み出し、無責任になりがちであろう。多くの場合、自分のマイナス面をみることが一層自分を落ち込ませる。しかし本当はマイナス面と向かうことが自分を深くさせるのだが、傷を深くさせずに自分のよくない部分を知ろうとするには相当の準備も必要である。

院内報70
 日常心療内科・精神科臨床でよく使う説明6 仕事に行けますか?
 確かに、なりたくない病気になって自分では治せずに医者にかかるのだが、医者が患者さんと関わってよくなって貰える部分と患者さん自身の自然治癒力、自分で自分を治そうとする主体性などが相互に働き合って病気が治るし治っていく。ただ薬をのんでるだけでは自分の病気にむきあうという主体性も弱くなり、病気が治らないで苦しむ場合もある。しかし今までの自分では治せなかったことを悟り、医者と協同作業して治して行く必要がある。仕事についてもいつ行けるかという疑問が患者さんからでてくるが、当たり前だが仕事は治ったら行けるのである。ではいつ治るかというと個人の性格・人格・環境など一人一人全く違っていて病気も違う。従ってそう簡単には病気の治る時期を予想しにくいこともあるのだが、ただ治るのを待つのではなく治そうとすることによってよりよく治していける部分がある。しかしこのことは早く治そうとあせることではない。病気に対してどのような対応がいいのか、どう過ごせばいいのかはいままでのやり方ではいけないだろう。さらに自分だけではなく、家族、人間関係を含む環境調整が非常に重要である。
 仕事に行けますかと聞いてくる間はやはり自信がまだないことも多く、行けるようになったら自然と仕事に行けそうな気持ちが湧いてくることも多い。仕事に行かなければならないのは当然だが、どこかに仕事に行けるという自信が必要である。行かなければならないのなかに無理があっては、しばらくは出勤できても長続きしないであろう。

映画の話51 キングダム・オブ・ヘブン
 12世紀末、十字軍が聖地エルサレムを支配してた頃、フランスのある地域で鍛冶屋をしているバリアン(オーランド・ブルーム)は子供を亡くした後、妻にも自殺されて希望を失いつつあった。そんな時、十字軍の騎士が突然彼の前に現れ、「私はお前の父だ。お前とお前の母に謝りたい。もしよければ、私の領地にきてくらないか?」と頼むが、バリアンはその話を断る。しかし自分の妻を葬ってくれた聖職者が自殺した妻は天国には行けないと侮辱し妻の十字架を奪っていたため、かっとなったバリアンはその聖職者を殺す。しかたなく父ゴッドフリー・イベリン(リ-アム・ニーソン)の後を追う。しかしバリアンはその聖職者が所属していた教会に命を狙われ、父と同行していた十字軍の騎士達は教会の追っ手と闘い、何人かは殺され、父も致命傷を負う。ゴッドフリーはエルサレムが良心に満ちた天国であり、キリスト教徒とイスラム教徒が共に反映する世界だと信じて、エルサレムのキリスト教徒の王に仕えており、自分の使命を息子バリアンに託して死ぬ。バリアンは妻子を亡くしたあとの生きがいをこの使命にしつつあった。
 難破などの苦難のうえエルサレムに辿り着いたが、途中イスラムの身分の高い者と争ったが命を助けていた。エルサレムは国王ボードワン4世とサラセン王サラディン(ハッサン・マスード)と危うい平和を結んでいた。しかし和平はルノー(ブレンダン・グリーソン)などの狂信的な十字軍戦士たちに冒されつつあった。エルサレムでバリアンは賢明で手強い顧問ティベリアス卿(ジェレミー・アイアンズ)に歓迎される。ハンセン病に冒されていた国王を支えていたティベリアスはバリアンに王国内は不和に満ち、王国外はサラディンに囲まれている現実を知らせる。銀製のマスクで顔を隠すほど病気が進んでいたボードワン王はバリアンと合ってイベリンの土地と称号を継承させる。このとき王の妹でギー・ド・リュジニャン(マートン・ソーカス)の妻シビラ(エヴァ・グリーン)と運命的出会いをする。こうしてシビラとバリアンは深い恋いに陥る。
 シビラの夫ギーはテンプル騎士団を率いてサラセンの隊商を攻撃し、サラセンと十字軍の闘いが切り開かれようとしていた。ボードワン王が話し合いをするためにルノーのカラク城に出発し、バリアンも王を待ち受けるため王より先に到着したがすでにそこはサラセンの軍勢に取り囲まれていた。王の到着前に民を守るためサラセンの大軍と死を覚悟してバリアンは闘ったが、偶然にも相手は自分が命を助けたイスラム教徒であったので、捕らえられただけであった。後に到達したボードワン王はサラディンと手を打ち衝突を回避した。バリアンは英雄になったが、ボードワン王の死後王権を握ったギーはサラディンと闘おうとしていた。ギーはエルサレム全軍を聖地からハッティンに向かわせサラセン軍によって全滅させられる。ティベリアスはエルサレムを去ったが、バリアンは民を守るためエルサレムでサラディン20万の兵士と闘おうとする。バリアンは指導者として民を騎士に変え、町を砦に変えて大軍からの攻撃を必死になって防いだ。サラディンの犠牲は非常に大きくなりやむを得ずバリアンと手を打ち、エルサレムの民は救われる。最後にバリアンはシビラと仲良く故郷で暮らすようになった。
 一神教の宗教同志は基本的に寛容さに欠けるきらいはある。しかしそれだけ厳しい強い確かな一面をもっている。宗教を信仰しながら愛を貫く、人を愛する難しさや他の信仰を持つ人にも人への慈しみをもつことが戦争を防げるはずだが、現実は厳しい。

日本神話と精神医学70 箸墓伝説
 ヤマトトヒモモソヒメは夫のオオモノヌシが蛇であることに驚いたので、私に恥をかかしたといってオオモノヌシは三諸山に帰っていった。ヤマトトトヒモモソヒメは責任を感じて陰部を箸でついて自殺するが、この死に方はムラムラの間引きと関係してくる。食べ物を確保するのが大変難しかった昔、ムラムラの妊婦は産婆に桑の木の先を尖らせて、子宮のなかの胎児を突き刺して貰って死産させることもあった。そのとき誤って子宮を突かれて妊婦が死ぬこともあったであろう。まさに生きると死ぬ、食べる、生殖、性器などが深くからみあってこの伝説はある。さらに恥、神、責任、自殺も絡んでくる。箸と墓まさに生きると死ぬを象徴している言葉であろう。間引きには他に石でお腹を叩いたり、産声をあげるまえに妊婦がお尻でつぶしたりしたらしい。伝説には時々忘れてはならない残酷さがあるということだろうか?

院内報71
 日常心療内科・精神科臨床でよく使う説明7 こだわり・強迫について
 人は清潔、秩序、完璧、納得、安全・安心などをえるために常に注意を払い確かめる傾向がある。しかしそれらはどこまで注意して確認すればよいのかは実は際限・限度がなく、結局自分の安心・納得だけによっているのである。しかし自分の安心・納得だけによっていると本当に安心・納得しきれるのかというと結局は不安になり、納得しきれずに何度も何度も確認せざるを得なくなり、自分でもやりすぎと思っていても確認せざるを得なくなる。こうなると強迫観念・強迫行為という症状になるのだが、これを治すのには症状と反対の態度や構えが必要になる。すなわち安心・納得してはいけないのである。不安や納得できない状態でかつ確認しないで絶え続けることが症状をよくするのである。すなわち不安でも納得しないでも事態は悪くなかった、悪くならなったという事実が患者さんをよくするのである。さらに自分一人の基準ではなく多くの人が安心・納得できる程度を自分の基準にとりいれることが重要である。そのためには人付き合いが欠かせないし、例え自分の基準より低くても人の基準を許すことも大事になる。また人の営みは無限にあるので自分の気にしていることはそのうちのひとつで、そのひとつにこだわれば他のたくさんの大事なことを失うということも知っておかなければならない。自分がこだわっている一つのことがいくら正しくても他の沢山の間違い・不十分さに気付かずある程度で手を打っているわけだからそのことを知れば主張を緩めざるをえないはずである。

映画の話52 フォーガットン
 テリー(ジュリアン・ムーア)は1年程前9歳の息子サムを飛行機事故でなくして以来、来る日も来る日も息子サリーの思い出に浸って悲しみが癒えずにいた。精神科医マンス(ゲイリー・シニーズ)のカウンセリングにも悲しみは癒えることはなかった。ある日マンス医師の元に向かおうとしていたが路上駐車していた自分の車が見あたらず、別の場所にあった。何か記憶違いがあったのかテリーは違和感を持った。マンス医師の所でも飲んでいたコーヒーが突然消えて、マンス医師に尋ねたが「コーヒーの香りが君の記憶に影響を与えたのだ。」と言われたがやはり釈然としないままだった。
 その晩、テリーが童話の編集の仕事に復帰したことを祝って、夫ジム(アンソニー・エドワーズ)がシャンペンを買ってきて2人で祝おうとしていた時に家族3人で写っていた写真から息子サムが消えていたのを知ってジムの仕業と思って怒りで家を飛び出した。公園でやはり娘を同じ飛行機で失っていた元プロ・ホッケーの選手アッシュ(ドミニク・ウエスト)と出会うが娘のことは覚えていないようだった。翌日家に帰りサムのアルバムやビデオテープを探したがサムの姿は跡形もなくなっていた。ジムの仕事先にTELをして怒りでジムに家を出ていってというが、あわてて帰ってきたジムに「君は病気が治ってきたのだ。いままで見えていた幻覚が消えたのだと言われ、さらにジムの連絡で駆けつけたマンス医師にも同じことを言われますます混乱してきた。マンス医師に入院を勧められたが、家を飛び出し図書館で新聞を探したが飛行機事故の記事は全くなかった。隣人に聞いても誰もテリーに子供がいたなどとは答えなかった。すがる思いでアッシュの家に押し掛け、酒によったアッシュが寝た後、テリーはアッシュの家の壁紙を見ていたときアッシュの娘ローレンが書いた落書きを思いだし壁紙をはぎ取るとローレンの書いた絵が出てきたのだ。テリーは人間わざではないのを感じて、翌朝アッシュに娘を思い出させようとしたが、突然安全保障局の人間がやってきてテリーを連れていく。アッシュは壁紙の絵を見た後、娘ローレンを思いだしテリーを追いかけ必死でテリーを逃しアッシュもうまく追ってを振り切ったが、2人は安全保障局と警察の両組織から追われる身になった。マンス医師にTELしもう一人娘を失った父親もいるので説明してほしいといったが「君はパニック障害だ。」と言われマンス医師も信用できなくなり、アッシュを励まし2人で事件を解明しようとする。ニューヨーク警察のポープ刑事もありふれた事件に安全保障局がでてくることに疑問を感じ、独自に捜査し始めた。飛行機会社を調べるうちある謎の男(ライナス・ローチ)がテリーの拉致に関わり、子供達が飛行機にのるのにも関わっていたことを思いだし、その飛行機会社の社長宅が無人になっていることも分かった。テリーを追ってきたポープ刑事はアッシュがその謎の男を拳銃で撃っても死なず逆に大空に吸収されるのを見て、テリーの言ったことを信じ始めた途端に大空に吸収されてしまった。謎の男は宇宙人であったのである。テリーは逃げて飛行場に行きそこでなぞの男に出会う。謎の男は「何故そんなに子供が忘れられないのか?忘れろ。」とテリーを強迫するが、テリーは子供のことは絶対忘れられないし忘れないと答える。このとき周りの人はみんな忘れてしまったのに何故自分だけが憶えているのか悟る。つまり自分が宇宙人の実験台だったのである。宇宙人は地球人の女性は自分の子供を忘れることができるかどうかの実験をしていたのである。結局最後まで子供サムを忘れなかったテリーに対し、忘れさせることの出来なかった宇宙人は敗北して消えてしまう。
 テリーは最後まで自分を信じることの出来た非常に強い女性だが、人間や母は映画で描かれたようにそんなに強いかはわからないが母子の愛情は相当強いと人は思いたいのだろう。

日本神話と精神医学71 ヒルメ・ヒルコ
 日神アマテラスと月神ツキヨミとスサノヲの3神の取りあわせには矛盾がある。性格のはっきりしたスサノヲという人格神に対して、日神・月神は自然神である。さらにヒルメはアマテラスと同一視されているが、ヒルコはすてられる不具者である。当時女性はシャーマンになり祭事権を持っており、男性はその支持に従う一面があった。従って女性神ヒルメ、男性神ヒルコを日神と月神にあてはめるとき、ヒルメはあてはまうが、ヒルコは月にあてはまらず捨てざるを得なかった。そこで神話で捨てられる話が生まれたと思われる。このように女性神が日本民族の祖先紳のわけはシャーマニズムという信仰形態が日本にあったことと深く関係しており、現在もシャーマニズムは恐れ山のイタコや沖縄のユタという形態で日本に残っている。日本人の男性はどこか女性を恐れるのはこのこととも関係しているだろう。

院内報72
 日常心療内科・精神科臨床でよく使う説明8 眠れないんですが?
 一口に不眠と言っても色々な場合がある。寝付きが悪かったり、途中で目が覚めたり、朝早くに目が覚めたり、2度寝が出来なかったり、一睡も出来なかったり、眠りが浅かったり、トイレに行くため起きやすかったりこのように一人一人不眠も違っている。多くの人は眠れなければ一層寝よう寝ようと努力したりしてさらに眠れなくなる。通常寝よう寝ようとすればするほど眠れなくなるのは当たり前である。なぜなら眠れている人は眠たくなるから寝るのである。睡眠は覚醒した意識状態がなくなって、夜という暗闇のなかで一種孤独な闇の中に入るのだから、本当は不安で怖いものである。それにも拘わらず眠れるのは体が自然な状態に加えて相当な安心感があるからだろう。この安心感は夜寝るときに生じるのではなく、日中の生活上の安心感それもある程度安心感が持続している時に持てるのであろう。それが人を眠くさせるのであろう。従って安心感がなく眠たくならないときに、頭や心を使って無理に寝ようとすればするほど意識が働いて覚醒し目が覚めてくる。逆説的だが眠れないので寝ようとすればするほど一層自分を眠りにくくするのである。ではどうすればいいのか?普段の日常生活の中に不眠の原因があるのだから、眠れないのなら寝ようとしないで布団の中で目をつぶって静かに休むのである。眠れなくても体を休めるだけでかなり睡眠の代わりになるだろう。不眠で日中だるいときは無理をしないことも大事だろう。
 このように不眠にも種々の特徴があり、寝付きが悪いのは最近のストレスや葛藤、悩みなどが原因になっていることも多く、途中で目が覚めやすいのは自分でも気付かないうちに無理を重ねているときに多い。このような不眠の原因を元から断つのも大事だが原因がなくなってもすぐ眠れるようになるかと言えばそうではない。無理、葛藤、悩み、ストレスが貯まっていて不眠、体調不良、一層の不眠という悪循環は簡単にはなくならない。そんな場合薬がその悪循環を断つのである。

映画の話53 姑獲鳥(うぶめ)の夏
 昭和27年の夏の話である。小説家の関口(永瀬正敏)は友人の古本屋で安部清明ゆかりの神社の神主であり憑き物落としの京極堂(堤真一)を何かと頼りにしている。ある日京極堂の妹中膳寺敦子(田中麗奈)に最近雑司ヶ谷産科大病院の久遠寺医院の娘梗子(原田知世)が妊娠20ヶ月になっても出産しないという噂があるのでそれに関する原稿を関口に依頼する。京極堂は久遠寺医院の娘梗子の婿が旧制高校の一年先輩の牧朗でありここ一年半ほど前から行方不明になっていることもあり胸騒ぎを覚え、やはり先輩の探偵榎木(阿部寛)に相談するよう関口に勧める。榎木の事務所を訪れた関口は偶然そこで妹婿の牧朗の行方を探して貰いたいという依頼をしにきた久遠寺医院の姉娘涼子(原田知世の二役)と出会う。関口は涼子との出会いになにかしら因縁を感じる。
 いよいよ榎木と関口は久遠寺医院を訪れるが梗子の病室に入ろうとした榎木はその部屋のあまりの不気味さに入れなくなる。榎木は見えない左目で他人の記憶を見ることが出来る超能力を持っていたため何かを感じたのである。代わりに関口が入るが梗子の妊娠以外には何も気付かなかった。実はそこには牧朗の死体が一年半もおいたままにされていたのにである。
 一方刑事で戦争中の関口の部下であった木場が久遠寺医院で赤子がいなくなるという事件を変死した久遠寺医院の看護婦から聞いたため捜査していた。さらに久遠寺医院の娘が赤ん坊をさらっていったという話をさらわれた赤ん坊の父親原澤から聞き出す。原澤は死んだ看護婦からその話を聞いたのである。さらに久遠寺家は他人に死んだ子を憑かせて呪い殺すおしょぼ憑きの筋だとも分かる。梗子の20ヶ月の妊娠。その夫牧朗の失踪。新生児の誘拐。憑き物筋。関口の涼子との関係。分けの分からない関口は京極堂に事件の解決を依頼する。京極堂が事件を徐々に明らかにするなか、久遠寺医院に子供を奪われたと確信した原澤は久遠寺医院を焼き討ちにくる。
 医院が焼け落ちる中、さらに京極堂は謎解きをすすめる。すなわち牧朗は学生時代涼子と関係を持ち妊娠をさせてしまうが、久遠寺の両親はそれを許さず子を堕胎させてしまう。そのため涼子は精神変調を来たし母、姑獲鳥、男性好きのニンフなどの多重人格が出現する。関口は姉の涼子すなわち京子という字と似ているため梗子と間違って愛し合う。恋愛は成就せず関口は京子を忘れざるをえなくなる。一方牧は傷心しながらもドイツ留学して立派な医師として帰国し久遠寺医院の養子となり気の確かな梗子と夫婦となる。しかしドイツ留学時代戦争の爆撃のため性的不能者になっていたため、梗子と久遠寺医院の医療助手との肉体関係を許さざるを得なくなる。そのため牧朗は自分の精子を使った人工妊娠の技術に成功し、もう梗子の医療助手との性的関係をみとめなくなる。しかし梗子は性的関係を諦められず、夫を殺してしまいそのまま想像妊娠し寝たままになる。姉の涼子は失った子供、想像妊娠したままの妹梗子、異常な赤ちゃんとして自分の子を堕胎させた両親、憑き物筋の家などなどから久遠寺医院で生まれる赤ちゃんをさらって頭を石でつぶし異常な子がうまれないようにする姑獲鳥となる。最後に焼け落ちる建物の屋上で一瞬我に帰った涼子はさらった赤ちゃんを関口に返し焼けて崩れる建物とともに死んでしまう。
 子供を奪われた母は正気をなくすのが当然だろうが、最近は自ら子供を殺してしまう母親もいるのは女性性の変化を物語っているのだろうか?

日本神話と精神医学72 神宮皇后
 第14代仲哀天皇の妃で天皇と共に筑紫に遠征し、仲哀天皇の崩後住吉の神の託宣に従って新羅に遠征し服属させ、息子応神天皇に位をゆずる伝説上の存在である。日本の女性は夫亡き後も夫の意志を継ぎしっかりと生き子供を育て、父から子への力の継承をスムーズに成り立たせる母として描かれている。このように父がいなくても母はしっかりと子を育て夫の代わりをすることは日本女性の強さが表れており、父がいなくても子を育てられるという父の力のなさも表しているのかもしれない。それどころか仲哀天皇は神功皇后の実家の息長氏によって殺された可能性もあり、女性と実家の結びつきの強さを表している。またこのことは日本女性の実家への依存も表しているのではないか?現在の嫁姑問題はまさに夫の家と妻の家とのある意味闘いを表しており妻の力が強くなりつつあることは妻の実家の影響が強くなっていることを表しているのだろう。

院内報73
 日常心療内科・精神科臨床でよく使う説明9 人間関係が大変なんですが
 人間関係は相互に種々の情報をやりとりをしているが、大きくふたつに分けて言語的コミュニケーションと非言語的コミュニケーションがある。言葉によるコミュニケーション方法を通じて他の方法も類推出来る。さて人が話す言葉はまず音であることを自覚しておかなければならない。その音に個人個人全く違った意味が付属していると同時にお互い共通の概念も付属している。例えばお母さんと言ったときそれぞれの個人はまず始めに自分の母親をあたまに浮かべるだろう。言葉はこのように一人一人違った意味を持っており、さらにその意味には感情や個人個人の思い出、体験が結びついておる。自分でも気付いていない無意識的なものまで言葉は含んでいる。自分には当然の意味を持つ言葉が相手には全く誤解されて伝わる部分があることを知っておかなければならない。言葉には共通の概念もあるから会話が成立しているのだが相手の気持ちが簡単にわかったらそれこそ大変である。すなわち相当誤解があるにも拘わらず簡単に分かるのは思いこみと言えるだろう。精神科医は人をすぐ見抜けると誤解している人があればここでそれを訂正しておきたい。精神科医は人の話を聞いても聞いても簡単には分からないのである。しかし聞くことによって少しずつだが聞く前より確かに分かるのである。さらに人は自分の話を聞いて貰うことによってすっきりし、聞いてくれた人を分かってくれようとしている人と感じるのである。ここで一機に際限なく話しをするのはよくなくて徐々話をしていく必要がある。
 では聞くだけでいいのかというとやはり話も大事でどう伝えれば自分の気持ちが分かって貰えるのか?これは話を聞くなかで相手が受け入れてくれる言葉かどうか分かったのちに、話をすればいいのである。受け入れてくれる言葉かどうかわからずに一方的に自分の正しいと思うことを話すのは押しつけであり、説教であるだろう。

映画の話54 亡国のイージス
 海上自衛隊のイージス艦(護衛艦)いそかぜは由良港に停泊していた。いそかぜの仙石先任伍長(真田広之)は部下達の内、仲間にうち解けない如月(勝地涼)が気になっていた。今回いそかぜには不審な荷物と共に海上訓練指導隊の溝口実は某国元工作員ヨンファ(中井貴一)達が乗り込んできた。同日午後出航したいそかぜでは訓練魚雷の落下など不審な事故が続いていた。その事故で死亡した仲間の死体を放置したままにする艦の行動に疑問を持った仙石は宮津副長(寺尾聡)から工作員如月がこの船を爆破させようとしていると聞かされる。機械室に閉じこもった如月は全員離艦しないといそかぜを沈めると脅迫していたのである。如月と絵心を通じて心を通い合わせていた仙石は機械室に単独乗り込み如月が仙石を殺すのを一瞬ためらった瞬間に如月をおさえた仙石は如月を宮津達に渡した。しかし機械室で仙石は如月から自分は防衛庁情報局内事本部長渥美(佐藤浩一)の部下であり、宮津副長とその手下達さらに訓練指導隊の溝口実はヨンファ達は艦長を殺し、アメリカから奪った特殊兵器GUSOHを使って東京を破壊すると言って日本に脅しを掛けようとしていると聞かされた。そのため防衛庁情報局からの命令で艦を爆破させようとしているとも聞かされた。如月の話は信じられなかった仙石だが宮津達が艦員全員を下ろさせたため如月の話を信じるようになり、一人で捕らえられた如月を救うために艦に戻る。宮津は自分の息子が論文亡国の盾で防衛庁に危険視され活躍の場を失い自殺し、さらに国防勉強会を開いていた宮津学校の部下達が左遷され、同じく某国本国から危険視され、GUSOHを手にしたヨンファと手を結び日本政府に脅しを掛けようとしたのである。いそかぜはうらかぜをハプーンで攻撃し政府と特別交渉に入った。仙石は戻ったいそかぜの中でその話を聞き艦をよく知っていたため一人でいそかぜの宮津・ヨンファら現乗員を振り回し如月と合流する。2人は外部との連絡を発光信号で送り潜水艦せとしおからいそかぜに侵入しようとしたがヨンファに見破られ失敗する。政府はテルミットプラスを使ってGUSOHを破壊する決断をしつつあった。ミサイル発射装置も破壊しようとして仙石・如月とヨンファら工作員との血で血を洗う争いが繰りひろげられた。テルミットの発射を決断した政府。ヨンファとGUSOHを奪い合う仙石。最後に仙石はGUSOHを確保し、テルミット発射が中止された。
 人には欲があり、喧嘩もする。すなわち国家同士も領土の奪い合いに加えて戦争も行ってきた。この人間の特徴を知っていれば武力を持ちながら平和を目指すのは当然であり世界のほとんどの国がそうしている。しかし日本だけ戦争放棄の憲法を持っていて、武力行使に手枷足枷をはめているが現実はアメリカの武力に依存している。本当に平和は難しい。

日本神話と精神医学73 秋山の下氷壮夫(おとこ)と春山の霞壮夫
 出石の八前の大神の娘イズシオトメにはたくさんの求婚者がいた。秋山の下氷壮夫も失敗していたので弟の春山の霞壮夫にイズシオトメと結婚できたら酒や山河の産物をすべて用意すると約束した。母神が藤蔓で作った衣、袴、くつ、くつした、弓矢などを身につけてイズシオトメの家に行った。そこで衣服と弓矢は藤の花に変わった。霞壮夫はその藤をイズシオトメの厠に掛けておくとオトメが藤を母屋に持って入り、霞壮夫も一緒に入り、オトメと婚し子供を一人もうけた。兄にこのことを報告しても約束を実行しなかったので母神の呪いで兄は8年間病んだ。最後に兄は母神に許しを乞うて病が治った。この話はアメノヒボコ伝説とともにやってきたものだが、海幸山幸神話と非常ににている。藤の花などは春を象徴し、山河の産物は秋を象徴している。兄である秋がやはり母神あるいは弟の春に許しを乞うテーマは親を継ぐのは長幼の差でなく、実力主義ということかも知れない。

院内報74

院内報75
 日常心療内科・精神科臨床でよく使う説明11 何故この子だけが?
 母親はこころの病気になった子供について他の子供と差別しないで育ててきたのにどうしてこの子だけが病気になったんでしょうかとよく尋ねる。しかし同じように育ててきたということには大きな問題が潜んでいる。すなわち同じように育ててきたつもりでも同じに育てたわけではない。さらにこの言葉には母親だけが子育てに責任を負っているような自責の念も入っていそうである。母親は基本的には子供を愛していてよかれと思ってやっていることが多く、子供の体質の違いや父親などの他の家族の役割、さらに近隣、学校などでの人間関係における子供への大きな影響を母親自身が充分コントロール出来ていなければならないと思いがちである。しかしそれほど母親が全責任を背負わなければならないかというとそうではないだろう。例えば夫婦仲が悪ければそのことだけで子供への余裕がなくなり、それを一方的に母親のせいににすることは間違いだろう。また自責の念が強くなって母親が全責任を感じて元気をなくすこと自信が子供の回復を遅らせるだろう。
 しかしだからといって完璧な人間はありえず、母親は母親で父親は父親で本人は本人でどんどん自分を変えて生き生きさせる必要はある。各自自分を変えるためには閉じこもらずに人や社会に開かれて本人だけでなくみんなが変わることによって本人も変わっていけるだろう。ただしいくら開かれていることすなわち人間関係が大事といっても無理して参ってしまっては意味がないのだから生き生きや元気をなくさないことを基準にさらに単に今だけでなく長く生き生きすることを基準にしなければならない。

映画の話56 シン・シティ
 第1話 特別屈強で暴力的な一方正義感もあるマーヴ(ミッキー・ローク)は醜い傷跡のため女から相手にされなかったのにある日高級娼婦ゴールディ(ジェイミー・キング)が愛をくれる。しかしその次ぎの朝ゴールディは殺されており、それを誰かが通報しマーヴは警察に捕まりそうになるが寸前のところで逃げることが出来たが犯人にされる。馴染みのストリップバー”ケイティ”で追っ手を迎え撃ち黒幕の神父に行き着き、さらに大物の農場に辿り着く。その農場で不気味なメガネ男ケビン(イライジャ・ウッド)に倒される。この男は女性を殺してはその肉をステーキにして食べるというカニバリズムの異常者であった。この男こそゴールディ殺しの犯人だと確信したマーヴは捕らわれた場所から脱出し、駆けつけた警官を返り討ちにしてその大物の名がアメリカを陰で牛耳るロアーク枢機卿であることを聞き出す。
 街に戻ったマーヴはゴールディにそっくりな女に命を狙われるが、それはゴールディの双子の姉ウェンディであった。やがてウェンディはマーヴがゴールディ殺しの犯人でないことが分かり、二人でその農場に戻りマーヴはケビンを残虐な方法で殺し、ロアーク枢機卿を追いつめゴールディと関係を持っていたこと、ゴールディを殺させたことを白状させた。
 
 第2話 元パパラッチで今は娼婦の街の用心棒ドワイト(クライヴ・オーウェン)はシェリーと関係を深めていった。シェリーの部屋で二人が密会しているときに、シェリーを無理矢理自分の女にしている刑事ジャッキー・ボーイ(ベニチオ・デル・トロ)がやってきたのでドワイトがシェリーの部屋の片隅に身を隠していた。ジャッキーがシェリーに対し付き合っている男がいることを責め立てたてので、ドワイトは切れてジャッキーをこてんぱんにやっつける。痛い目に遭わされたジャッキーは怒りにまかせてオールドタウンに行くが娼婦達を拳銃で脅かしたりしたので殺人兵器ミホが刀でジャッキーを瞬時に殺してしまった。身分証からジャッキーが警官であることがわかり、警官を自由に遊ばせるならオールドタウンは目こぼしするという約束を破ったことになってしまった。ドワイトの元恋人でオールドタウンのトップのゲイル(アレクシス・ブレデル)はドワイトと謀ってジャッキーの死体を始末しようとするが、オールドタウンを狙っているギャングに家族を脅かされ、金にも困っていたベッキーに密告された。ドワイトはギャングの用心棒マヌート(マイケル・クラーク・ダンカン)一味にジャッキーの首を奪われそうになり、オールドタウンで凄絶な銃撃戦が始まり、オールドタウン側が勝利する。

 第3話 シン・シティ最後の正義ハーティガン刑事(ブルース・ウィリス)は狭心症に苦しみながらも、3人の幼女殺しの犯人ロアーク・ジュニア(ニック・スタール)を追いつめる。ロアークが新たな犠牲者11歳のナンシーを誘拐していたため、ジュニアを半殺しにして性的機能も奪いナンシーを救出するが、仲間の刑事ボブ(マイケル・マドセン)に裏切られ撃たれる。そして息子の復習に燃えるロアーク議員はハーティガンを苦しませるためにハーティガンの命は維持される。ハーティガンは罪をきせられ投獄され拷問を受ける。牢獄で罪を認めないハーティガンを支えてきたのは何年も手紙を書き続けてくれたナンシーであった。8年後ナンシーからの手紙が途絶え、ナンシーへの脅迫を示唆する女性の指を送られたハーティガンは敢えて罪を認め出獄する。ナンシーの無事を見届けるためにナンシーの部屋にあった手がかりになるストリップ・バー”ケイティ”のマッチを頼りに”ケイティ”にやってきたハーティガンはそこで艶やかに成長したナンシーを見つける。ハーティガンはイェロウバスターの尾行に気づきすぐにそこを立ち去ろうとした時ナンシーがハーティガンを見つけ抱きしめにくる。イェロウバスター実は異臭を放ち醜く整形されたロアーク・ジュニアがハーティガンへの復習のため罠にかけナンシーを見つけたのである。ナンシーを奪い、ハーティガンを捕らえ殺そうとしたイェロウバスターはナンシーを復習のため犯そうとする。かろうじて脱出したハーティガンはナンシーの救出のためイェロウバスターと決闘し勝利する。ナンシーとハーティガンはお互いに惹かれ合うがハーティガンにとってナンシーは職業上の関係や年齢差などなどの神聖な存在のため手も触れることができなかった。最後にこの事件をしめくくりナンシーとの関係をこのままにするために彼は自殺する。

 罪の街シン・シティは人間の腐敗しきった側面を描くとともに正義の存在も描いている。人間は神でも悪魔でもないということである。この映画はカラーを部分的に使用した白黒映画だが背景の黒さが人間の悪徳を表し、カラーがそれに対するアクセントすなわち正義なども象徴しているようだが正義は単なるアクセントなのだろうか?

日本神話と精神医学75 天つ罪・国つ罪
 1畦放ち 2溝埋め 3樋放ち 4頻蒔き 5串刺し 6生剥ぎ 7逆剥ぎ 8屎戸の8種が天つ罪、9生膚断 10死膚断 11白人 12こくみ 13己が母犯す罪 14己が子犯す罪 15母と子と犯す罪 16子と母と犯す罪 17畜犯す罪 18昆虫の災い 19高つ神の災い 20高つ鳥の災い 21畜仆し蠱物為る罪の13種が国つ罪である。
 天つ罪は古代農耕社会の根幹を揺るがすことであり、国つ罪は個人の罪、非道徳、疾病、災害などの個人の問題である。
 さて天は高天原、アマテラスオオカミ、天皇家とも関係しており、天つ罪の天により暗黙の内に天皇家が社会、国家の代表であることを表していることになる。一方国、国家、国民は個人を示唆していて天皇家に支配されることを含んでいる。まさに天皇は天の下の国をシラシメスすめらのみことと言ってるのである。このように神話において人は支配階級に無意識の内に支配されている一面がある。

院内報76
 日常心療内科・精神科臨床でよく使う説明12 コムプレックスという言葉は劣等感を指すとは限らない。
 普通の人はコムプレックスというと劣等感のことだと思うが、本当の意味はそれだけをさしているのではなく、複合観念一般をさす。それは幼児期の人間関係に根ざした複雑な感情、情緒、観念である。
 例えばある子供に弟や妹が生まれると、両親の愛情・関心のかなりの部分が下の子供に行き本人は両親に嫉妬、下の兄弟に妬みなどの感情が起こる。本人のその感情に両親が気付いている場合、気付かない場合、無視した場合、我慢させた場合、代償に物を与えた場合、それなりに気遣った場合などなど、この時の心理状態は後の人間関係・3者関係の時の本人の複雑な感情、態度と大いに関係してくる。
 母親を独占したいのに邪魔な父親がいる時にその母親との関係、父親との関係すなわちエディプスコンプレックスなども有名である。
 その他兄弟間の妬み、争いを含むカインコプレックスもある。人の感情はこのように幼児期からの家族毎の複雑な人間関係に基づいている。

映画の話57 親切なクムジャさん
 親切なクムジャさんと呼ばれている女性(イ・ヨンエ)はサンタクロースの衣装を着た聖歌隊や伝道師に迎えられて13年間服役した刑務所を出所する。しかしクムジャは刑務所のなかで親切だった態度と全く違っていて何か特別な冷たい意志を持っているかのようだった。クムジャは幼児誘拐殺人で服役していたのである。高校時代に妊娠したクムジャは教育実習のペク先生(チェ・ミンシク)に助けを求めたがこのペク先生が悪人で身代金目当てにウオンモ君誘拐殺人をしたのだが、クムジャはその犯罪を手伝わされた。さらにクムジャの子供も殺すと脅かされ罪を一人で被るのである。クムジャは刑務所生活で相当辛酸を嘗め、自分の人生を狂わせたペクに復讐を誓うのである。そのため苦しんでいる囚人に親切にし自分の復讐計画を手伝って貰う準備が徐々にできてきたのである。
 出所後先ず始めにウオンモ君の両親を尋ね自分の指を切って、許しを乞う。次ぎに刑務所でケーキ作りを教えてくれたチャン(オ・ダルス)の店で働き始める。働きながら自分の娘ジェニー(クオン・イェン)の居場所をつきとめ、オーストラリアに養子に貰われたことが分かり会いに行く。帰り際どうしても韓国に行くと言い張ったジェニーを連れて帰る。クムジャは囚人仲間に助けられペクの居場所を知り仲間の一人イジョン(イ・スンシン)がペクと結婚をしたのである。クムジャとイジョンが会っているという情報をあの伝道師(キム・ビョンオク)がペクに売り、ペクは二人の男を雇いクムジャを殺そうとした。しかし根性の坐っていたクムジャは反撃し、さらにイジョンに薬をもられて気を失ったペクはクムジャに捕らえられ山の廃校に監禁する。そこでペクの携帯電話のなかに子供達の声が入っていたり、ウオンモ君のビー玉がストラップにされているのをみたクムジャはペクの家を調べ犠牲者が他にもいることが分かる。ペクに復讐したい犠牲者の家族と真犯人ペクを捕まえられなかった警察に疑問を感じていたナム・イル刑事を山の廃校に呼び出し、ペクの家から持ち出した子供殺害ビデオを家族に見せみんなでペクをどうするか相談する。
 結局何も出来なかった警察に頼むより遺族全員がペクを殺し復讐することに決定した。復讐を実行した後、ケーキ屋に集まりペクの財産を山分けし各家族は三々五々別れる。復讐を終わってジェニーと別れることになるその朝は過去を洗い流すかのような雪が降っていた。
 復讐が終わった後、人はそれに変わりうる意志を生み出すのは並大抵では出来ないし、虚脱状態になるのではないか?昔の敵討ちはその行為によってみんなの賞賛もあったが、現在では賞賛されることはなくなっているのだからその人の怒り・悲しみを治めるのに一番いい方法は何だろう。

日本神話と精神医学76 相撲
 天下一の強力と言われた当麻蹶速(たいまのけはや)は出雲の野見宿弥(のみのすくね)と力競べをした。これが相撲の起こりであると言われており、当麻のある飛鳥地方に相撲神社がある。以後この野見宿弥は当麻蹶速の領地(葛下郡当麻)を賜って朝廷に仕えることになった。この野見宿弥は殉死を禁じた後の皇后日葉酢媛の埋葬の際に埴輪を立たせて、以後野見宿弥は土部臣と改姓した。
 朝廷内で葬礼の仕事を土師氏と当麻氏が争っていたのを相撲に例えたとも言われている。さらにすもうはすまいという発音からきており、神に捧げる舞いという意味もあり、このように相撲は神話や朝廷と結びついており、神事と言われている。色々の争いを相撲という神事・スポーツに昇華したとも言える。日本のスポーツは神事や道という道教的なものと結びついており、日本人はこのように何事も権威を持たせようとする傾向がある。

院内報77
 日常心療内科・精神科臨床でよく使う説明13 苦しい症状をなくそうとすれば余計に苦しむ
 精神科・心療内科の疾患は他の病気と同様、本人が望んで引き起こしたわけがない。本人の悩んでいる症状をターゲットにして治療できる内科・外科に比べて、精神疾患は患者さん自身がそれをターゲットにして治そうとすればするほど、注目がその症状に集まって一層症状が強くなる傾向がある(心身交互作用)。精神は自由自在に大きくなったり、小さくなったり出来るため例えば心臓の動悸に注目すればするほど、心臓の動悸が強くなる。精神が心臓や動悸への関心だけに占められる。従って逆説的だが症状を軽くするためには治したい症状を苦しくても持ちこたえながら、注目を症状からそらすため出来るだけ楽しいこと、安心できること、落ち着けること、軽い運動、趣味などの気分転換や楽しみなどをもつことが大事である。逆にこだわればこだわるほど症状の袋小路からでれなくなるのは強迫症状などの精神病理からも理解できる。

映画の話58 SAYURI
 昭和の始め、貧しい漁師町に生まれた千代と姉の佐津は父により、花街に売られる。千代は神秘的な青灰色の瞳を持っており、置屋新田のおかあさん(桃井かおり)に気に入られるが、姉の佐津は女郎部屋に行かされる。新田には花街一の売れっ子の初桃(コン・リー)や見習いのおかぼ、大きいおかあさんなどがいた。家族から引き離されたつらさ、下働きのつらさ、何故か千代を目の敵にする初桃など幼い少女には過酷すぎる日々であった。ある日女郎部屋に姉佐津がいると聞いて姉に会いに行き、二人で花街を逃げる計画をしたが、結局逃げられず、怪我をし、さらなる借金を背負い、その上両親が死んだことを聞かされる。花街で生きることを決めたが、芸者になる稽古にも通わせて貰えなかった。そんな時会長さんと呼ばれていた立派な身なりの紳士(渡辺謙)にやさしく声をかけて貰って、こころから芸者になることを決めた。芸者になればその会長さんにあえるかも知れないと思ったのである。
 数年がたち千代に転機が訪れた。芸者のなかの芸者と言われている豆葉(ミシェル・ヨー)が千代を芸者に育てたいと行ってきた。稽古を再開し、豆葉に厳しく躾けられた千代は芸者さゆり(チャン・ツィイー)として花開く。男達を虜にするさゆりだが、彼女の心は一度あったきりの会長さんのものだった。ついに会長さんに再開し、会長さんが岩村電気の創業者だったことが分かる。会長はさゆりに特別な関心を寄せず、一方芸者嫌いの会長の友人延(役所広司)ですらさゆりに魅了される。さゆりに敵愾心を抱き罠をしかける初桃、初桃に逆らえないおかぼ(工藤夕貴)との疎遠、好きでもない男を旦那に持たなければならない水揚げなどを経験し輝きをますさゆり。
 しかし日本が徐々に戦争に突き進んで行く中、会社も花街もなくなり、日本が敗戦しアメリカに占領される。アメリカの将校に取り入り会社を再開するのに、会長と延は芸者さゆりに接待を頼む。さゆりはおかぼの助けをかりたが、実はおかぼはさゆりをねたんでいた。接待の場所で会長と二人で会えるようおかぼにも頼んだが、おかぼはアメリカの将校をあわせてさゆりはその将校に乱暴されそうになるが、それを会長に見られる。しかし最後に会長と二人で会い、さゆりの本当の気持ちを伝えた。実は会長がさゆりを育てることを豆葉に頼んでいたことも告白し、さゆりを好きになった延に遠慮して近づかなかったことを話す。二人はここにはじめて愛を確かめ合う。
 日本の伝統、歌舞、着物、女性、上品さなどの素晴らしさが描かれているが、女性がつらい思いをして始めて得られた美しさであることを知っておかなければならないだろう。

日本神話と精神医学77 出雲
 日本神話は高天原神話、出雲神話、日向神話に分けられるが出雲はこのように神話において非常に大きな役割を演じている。さらにオオクニヌシ、スサノヲの根の国、イザナミの黄泉の国なども出雲と関係する。出雲は何故神話において重要な役割を担っているのだろうか?民族学からは出雲は縄文人の系統を引いているという説もあり、さらに考古学の古墳からは前方後円墳と違った四隅突出方形墳が発掘されており、大和や九州とは異質な面がある。国引き神話の別の土地が出雲に引っ張られてきた話は、すなわち住民が大和や九州と違っているとも考えられる。暦でも出雲は11月を神有月というように出雲に神が集まるところである。自分の中に異質な要素があってもそれを自分の中に取り込むことが一番の安定を生むということなのか?

院内報78
 日常心療内科・精神科臨床でよく使う説明14 妄想と否定する事は出来ない
 妄想の定義は訂正することの出来ない誤った確信である。従って妄想を否定し訂正しようとすることは無意味であり、患者さんとの距離を一層大きくすることになる。ところである人の感覚、体験は別人には決して体験できない。ただ相手の言葉を聞き、相手の態度・行動から想像・洞察するだけである。従って人は一人一人全く違った経験・体験をしており基本的には人は相手の体験を否定できるわけがない。しかしここで重要なのは妄想と言われるのは相手には理解・納得できないからであり、妄想のような内容は相手にはあり得ないことである。すなわち人とのコミュニケーションが取れないということであり一緒に生活・仕事・遊びなどをしていくのに大きな困難を伴うということである。
 このように妄想を持っているかどうかより一緒に過ごしていけるかどうかが重要なのである。

映画の話59 3丁目の夕日
 昭和33年東京タワーが建設中だった頃、人々は未来に向かってがむしゃらに働いていた。中学卒業後、地方から集団就職で東京にやってくる若者も多かった。星野六子(堀北真希)も期待を膨らませて、夕日町3丁目の鈴木オートに就職したのである。しかし六子は大きな会社だと思っていたのに小さな町工場でがっかりしてしまう、しかし気を取り直して頑張っていた。鈴木オートの社長則文(堤真一)は短気でそそっかしいが根は善人であり、妻トモエ(薬師丸ひろ子)は優しく、やんちゃな子供一平(小清水一輝)に囲まれて元気に仕事をしていたが、修理の知識は全くなく、最初は全く役立たずであった。履歴書には自動車修理が出来ると書いていたのにあまりの出来なさに堪忍袋の緒が切れて則文は六子とぶつかってしまう。喧嘩の最中六子の履歴書には自転車修理と書いてあったのを読み間違えていたことが分かり、則文は六子に謝ってまた一緒に仕事を始めるのである。
 ところで夕日町3丁目には駄菓子屋の店主で小説家志望の茶川竜之介(吉岡秀隆)がすんでおり、最近開店した一杯飲み屋の若い女将ヒロミ(小雪)の所によく飲みに来ていた。ヒロミの友人の息子淳之介(須賀健太)が誰も引き取り手が無くヒロミのところにやってきたが、ヒロミは一人暮らしの茶川に無理矢理淳之介を押しつけてしまう。最初は邪魔者扱いしていた茶川が生活のため冒険少年ブックに連載している少年冒険団を淳之介が大好きなのを知って二人は仲良く暮らし始める。ヒロミもたまに世話をしに来てくれて茶川はまんざらでもない。3丁目の鈴木オートにテレビがやってきた時などみんなが集まって力道山を見るほどだった。ところがテレビがやってきたその日にテレビが見えにくくなったため東大卒の茶川は僕が直せるとしゃしゃりでて結局直せず恥をかくことになった。また淳之介の描いた未来の話を少年冒険団にちゃっかり採用したりして淳之介に借りの意識を持ったりもした。
 そのころ淳之介は母親の居所がわかり一平と一緒に淳之介の母親に会いに行くが結局会えずに終わり、家に帰るお金がなくなり途方に暮れるが一平の母トモエが困ったときに利用するようにといっていたセーターのつぎはぎにお金が入っていたのでようやく家に帰れる。一平の家族はそれこそ心配で心配で大変だった。帰ってきたときには一平は家族に受け止められ、以外にも淳之介は茶川に抱きしめられたのである。
 茶川はヒロミと淳之介の3人で暮らしたいと思い、ヒロミにありったけのお金をはたいて買った指輪のケースを見せ、いつか指輪を買うということでヒロミに求婚するが、ヒロミはうれしく思ったが身内の借金のかたに飲み屋を畳んでそこをでなければならなくなったのである。
 ある日茶川の所にお金持ちが淳之介の父親であると名乗ってやってきて、淳之介を引き取りたいと言ってきて茶川と淳之介二人は別れることになる。ヒロミにもさられ、淳之介にも去って行かれた茶川が必死に淳之介の後を追ったところ、結局淳之介も茶川のところに戻ってきたのである。
 昭和30年代の集団就職、東京タワー、テレビ、市電など懐かしい場面が、映画の話としては陳腐にも関わらず、感動を与える傾向がある。

日本神話と精神医学78 神とゴッド
 明治になって一神教のゴッドを基本的には多神教を表す神々の神と訳したのは基本的には混乱を生み出し、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教を誤解させてきた。絶対的なゴッドを信ずる人々はお互い絶対的なゴッドであり相容れる分けがないだろう。このように八百万の神々、中国道教の神・帝・君、インドヒンズー教の神々、ギリシャ神話の神々のような多神教の神々とは明らかに違う。    
 一方仏教は仏という絶対者の教えにも関わらず、多神教の影響をうけてか釈迦牟尼仏、阿弥陀仏、薬師仏、大日如来などたくさんの仏がおり、仏になる前の菩薩も数多くいる。仏教は一神教であると同時に多神教的であり仲介役になる可能性がある。
 日本神話の第一神といえばアマテラスオオミカミであり、女性でもあるのは特徴といえるだろう。日本人の和や迎合主義はええ加減さを表すと同時に寛容さ・協調性を表しており、西洋の厳しさ、契約制・確かさとの違いを知っておく必要がある。

院内報79
 日常心療内科・精神科臨床でよく使う説明15 調子の波
 うつ状態の患者さんが回復してくるときには一本調子でよくなるとは限りません。調子のよいとき、悪いときを繰り返しながらよくなることも多いです。多くの患者さんは調子がよければ治ったかのように感じられかなり元気に暮らそうとします。そうして再び落ち込んでしまって参ってしまったり、がっかりしたりします。ここでまだ調子の波があるということはまだ調子が悪いあるいは充分安定しているとは言えないと言うことです。従って調子がよいからといって元気に調子よくすることが調子を悪くする可能性が高いです。従って調子がよくてもまだまだ充分回復していない、充分余裕や余力が貯まっていないと思って無理をしないことが重要です。さらに病気になるまえの元気さ、頑張りを再度求めることも慎重にする必要があります。なぜならその元気良さ、頑張りが患者さんをうっとうしくさせた可能性が高いからです。

映画の話60 プロミス
 死体が散乱する戦場で一人の少女が食べ物を漁っていた。それは病気のお母さんにあげようとしたものだった。饅頭を見つけた少女は一人の少年に饅頭を奪われるが、私の奴隷になれば食べ物を返してあげようと言われ、仕方なく受け入れるが饅頭を手にするや約束を破って逃げてしまう。その途中その少女は饅頭を湖の中に落として悲しんでいるところに運命の神・満神(チェン・ホン)が現れ、「世のすべての男性から好かれる姫にしてあげましょう。但し本当の愛は得られないでしょう。」と告げられ少女傾城は「はい」と答える。
 華の甲冑を身に付けた大将軍光明(真田広之)は連戦連勝してきたが、今回の敵は味方の何倍も多かった。そこに天から俊足を与えられた奴隷の昆崙(チャン・ドンゴン)の活躍によって勝利を得る。そんため光明は昆崙に自分の奴隷になるよう命じた。やがて光明のもとに王が北の将軍無歓(ニコラス・ツェー)に攻められ、王の寵愛を受けていた姫傾城(セシリア・チャン)を奪おうとしているという報告が来た。それを聞いた光明は昆崙を連れて王を助けに急ぐ。途中光明は刺客鬼狼(リウ・イェ)に負傷を負わされる。光明は昆崙に命じ自分の甲冑を来て王を助けに行くよう命じる。   
 昆崙は光明の華の甲冑を着て城に入り、光明と誤解された昆崙は王を助けようとした時に傾城を気に入り、王の犠牲になりそうだった傾城を助けるため、無慈悲な王を殺してしまう。北の軍隊に追われた昆崙は傾城に死ぬなといって、崖から飛び降りる。その後光明は王殺しの罪を被り引退をせざるを得なくなった。一方生きていた昆崙は無歓が実権をにぎっている城まで再び傾城を取り返しに行き鬼狼に殺されそうになるが、昆崙が鬼狼と同族の北の民だったため鬼狼は二人を逃す。光明の所に戻った傾城が自分の命の恩人ということで二人は愛し合う。光明は傾城を救ったのは自分でないとは言えず傾城を愛する故に傾城をだまし続ける。
 傾城を愛していた昆崙は二人と別れ鬼狼に連れられ故郷に帰るがそこで昆崙の母親や妹、同族が無歓に皆殺しにされたことを知る。実は鬼狼はただ一人命ほしさに北の将軍無歓の黒マントを着て奴隷になった北の民の生き残りであった。
 ある日光明の元部下が光明の所にやって来て「やはり大将軍はあなたしかいない。無歓ではだめだ。」と言われ城に帰ったがそれは光明、傾城をとらえる策略だった。無歓に敵意を抱いた昆崙が一人お城に忍び込み傾城を救おうとするが無歓に捕まるところを鬼神は黒マントを脱いだら死ぬにも拘わらず、自分を犠牲にして昆崙を救う。しかし最後には光明、傾城、昆崙3人とも無歓に捕まり殺されそうになるが、光明が無歓の奴隷になると言って縄をほどかれた瞬間無歓に一撃を加える。二人が闘っている間に昆論の縄もほどかれ、光明は致命傷を負い、無歓は亡くなる。亡くなるまえに、傾城に饅頭を返すから奴隷になれといって騙されたあの少年が無歓であり、それ以後人を信じれなくなったと語ったのである。傾城を愛しながらも偽りの愛と思っていた光明も最後は傾城と昆崙の二人が愛し合うことを許して死んでいく。
 昆崙も重症であったが黒マントを着て生き返り、真実を知った傾城と添い遂げることが出来たのである。
 この映画は運命に愛はうち勝つというテーマであるが、ある愛が成就するのにどれだけ多くの犠牲が必要かも言いたいのだろう。さらに運命、無極に支配される人間の哀しさも描いている。

日本神話と精神医学79 サニハ(審神者)
 サニハとは広く霊威にみちた場所を言い、タケノウチスクネがサニハで神の言葉を請い、中臣烏賊津使主がサニハとして神の言葉を解いたりしている。サニハは神託を請う場所から神託を解する者にも使われるようになった。神の言葉は比喩であり、それを解するものがサニハである。このように中臣氏がこの重要な役を担っていた。
 しかし人の言葉も、ある現象を示すために比喩や例えから発達しているのでそれを理解し、伝える役割のものも必要である。精神科医は患者さんの人間関係・家族関係につての翻訳者・サニハ的側面もある。人の心を表す言葉は非常に神秘的深い意味があり、解釈は相当慎重になされるべきであろう。

院内報80
 日常心療内科・精神科臨床でよく使う説明16 身体の症状は身体の病気だけで起こるのではない
 多くの患者さんは身体に症状があるとすぐに身体の病気に結びつける。例えば頭が痛いと大脳に何か病気が起こっているのではないかと心配する。動悸や胸痛があるとすぐに心臓が悪くなったと思う。むかつきや嘔吐があると食道・胃の病気を考える。頻尿がおこれば膀胱の病気だと思う。
 ところが身体の症状は身体の病気だけでなくストレスによっても起こる。日常生活における家族関係、人間関係や経済状況におけるストレス、葛藤、不満などの心理的不快感は当然身体の中に入っているわけだからそれらが発散、解消されずにたまれば当然身体に症状が出てくる。日本語のなかに身体症状を起こしやすいストレスは直接身体言葉を使って言い表されている。頭の痛いことがあるとか、むかつく奴とか、息苦しい感じ、腸が煮えくり返るなどなど身体症状がストレスで起こることが言葉のなかにも表現されている。
 それどころか身体のほとんどの症状が身体の病気だけでなく心理症状としても起こるのである。たまたま多くの人はストレスがあっても強い症状や持続する症状ではないので気にしないですんでいる。

映画の話61 二人日和
 京都で神社やお寺の衣装をつくっている神祇装束司黒由 玄(栗塚 旭)の妻知恵はALS(筋萎縮性側索硬化症)と言う難病にかかる。玄は毎日近くの梨木神社の水をくんで来て夫婦でコーヒを飲むのを楽しみにしているが、ある日水を汲みに行く途中である大学生が子供達に手品を教えるのをみて、自分の妻知恵がだんだんと手も使えなくなっていくのを少しでも防ぐのにその大学生伊藤俊介(賀集利樹)に妻に手品を教えて貰いたいと頼む。京の町屋であり、自宅兼仕事場である家での生活に支障が出始め、助けてもらいたいという合図もひもを使ってする工夫などをした。その家に俊介がやってきてしばしの楽しい時間が過ごせるのである。俊介には恋人がおり、遺伝子の研究をしていて留学するのに彼女と離れなければならないなどの悩みを抱えていた。玄と知恵は若い頃駆け落ちまでした中であり、二人に子供がないなか、玄は仕事と看病・介護を黙々続ける。そんなとき知恵が呼吸困難に陥り、入院する事になった。日本を立つ前の俊介のマジックショウを玄と知恵は見ながら俊介らと一緒に過ごし、一時期二人は楽しい日を過ごす。最初は見舞客にも会っていたが徐々に会うことが苦痛になってきた知恵のために玄は仕事を弟子に譲り、知恵だけのために生きる決心をする。店をたたむ時にでてきた知恵の日記を読みますます二人は離れられないと思う。こうして知恵が死んだ後、玄はしばらく知恵の幻覚を感じるのである。
 四季に彩られた古い町京都、長年暮らしてきた夫婦の絆、妻の難病、職人の仕事と看病・介護、若者の恋愛と仕事など人生を深く感じさせてくれる映画である。愛する人などのように非常に大切な対象の喪失には耐え難い痛み、苦しみが伴うことがよく分かる。

日本神話と精神医学80 ゆつかつら
 ゆは神聖という意味であり、この神聖なかつらはアメノワカヒコの住まいの門前にあり、天界の使者の雉が停まる場所であったり、海神の宮殿の門前にあって山幸彦が登って海神の娘と会う場所である。この話の構造は下界のものが、天界などのより高い世界の神と会うための装置のようなものである。神は通常直接この世界に表れるのでなく樹木や石などに憑りついて出現する。桜(さくら)も神のよりつく神聖な場所という意味がある。患者さんが発信器が近くにあって電波をかけられていると言ったり、受信機が埋め込まれていて電波を送られると言う言葉の意味を考えると、昔の人のこういう体験が天上界の神の憑りつく樹木や花という形で語られているのかもしれない。

| | Comments (3) | TrackBack (7)

院内報41-60

■こころ41
日本神話と精神医学41 「タカミムスヒ(別名高木神)」
 カミムスヒと対になっている高天原の神。アメノミナカヌシに続いて出現する別天神(コトアマツカミ)である。タカミムスヒは天照大神・天神系と関係しており、カミムスヒはスサノヲ、大国主、国神系と関係している。高天原の重要な神オモイノカネの父であり、日神・月神などの祖である。
 ムスヒは生成する意味であり、天照大神と一緒になって天神系・天皇家などの祖となっている。日本神話は天と地が生成され、天神系が国土を統一する起源物語であり、その司令神としてのタカミムスヒは天照大神と同じくらい重要な神である。高木神という名前とともに高所から国土を形成・統一するための司令を与えるという意味がある。高低は人間や国家の優劣、尊敬・軽蔑と結びついている。国レベルの話にするとこの概念は諸外国に対して低くみたり、高くみたりする傾向となる。明治維新において日本が西洋を高くみて、アジア・アフリカを低くみたのはこのことと関連するだろう。

―人格障害(1)―
 人格は性格と知能によってきまる対人関係のあり方であり、そのひととなりといえる。性格や知能は遺伝的体質・気質とその後の環境すなわち育ちによっても違ってくる。特に性格は幼児期の人間関係(コンプレックス)すなわち母親・父親・同胞などとの関係によって形成される。
 人格障害は3つのタイプすなわち奇妙で風変わりなタイプ、人を困らせるタイプ、自分が困るタイプなどに分けられる。
 奇妙で風変わりなタイプには妄想性、分裂病質、分裂病型人格障害がある。人を困らせるタイプには反社会性、境界性、演技性、自己愛性人格障害がある。自分が困るタイプには回避性、依存性、強迫性人格障害がある。精神障害のすべてにいえるが一人の個性豊かな人間が上記の典型的な人格障害の1つだけに合致するのではなく、二
つ以上の人格障害の特徴を併せ持つのは当然といえる。典型的な一つの人格障害の場合もあるが、二つの人格障害を併せ持っていたり、1つの人格障害が優位だが他にもいくつかの人格障害の特徴を持っているということが十分ありうる。
 基本的には人格は疾患ではなく、障害といえる。従って人格は治すのではなく、どのように付き合っていくのかという問題である。しかしながら人格障害には神経症や精神病を併発しやすくそれらの症状の軽減をはかることにより、また人間関係の調整により人格障害を改善していくことは可能である。

映画の話しあれこれ23 「たそがれ清兵衛」
 江戸時代末期、庄内の海坂藩のお蔵役下級藩士・井口清兵衛(真田広之)は帰りの時刻になると、同僚との付き合いを一切せずにそのまま家に帰るために「たそがれ清兵衛」と呼ばれている。清兵衛は妻に先立たれ、2人の娘と痴呆の母親の世話をするために早く帰らなければならないのだが、子供の成長を楽しみにしており、同僚との付き合いより子供といるのが楽しいのである。もともと清兵衛には幼なじみの飯沼朋江(宮沢りえ)という好きな人がいたが、家格の違い故に結婚は出来なかったのである。その朋江が酒乱の夫と別れて実家に帰ってきたのである。実家に帰ってきてから朋江は時々清兵衛宅を訪れて清兵衛の家族の世話をするのである。朋江も清兵衛が好きなのだが、清兵衛は家格の違いで結婚を申し込めないでいる。
 ある日朋江の元夫甲田(大杉漣)が実家にからみに来ていて、朋江を送ってきた清兵衛はみるにみかねて決闘を申し出る。あくる朝、清兵衛は居合いの達人甲田と木刀で決闘したにもかかわらず勝利を得る。
 そのうち藩主が急に亡くなり、お家騒動が起こるが清兵衛には関係のない話である。しかし改革派がお家騒動に破れて、その一派の一刀流の剣客余呉全右衛門(田中泯)を討てという命令が、この前の果たし合いで腕がたつという噂をたてられていた清兵衛にくだされる。清兵衛の小太刀の腕も鈍っていたので断ったにも拘わらず藩命とい
うことになり、死を覚悟で引き受ける。決闘の日、朋江を呼んで死を賭けた自分の晴れ舞台の身なりを朋江に整えてもらう。余呉は改革派に拾われるまでは、食うあてのない浪人でありその間に妻と娘を労咳で亡くしていたのである。自分を拾ってくれた改革派のために頑張ったのだと清兵衛に語る。それを聞いた清兵衛は斬り合いをする
つもりが無くなったが、清兵衛の小太刀でない方の太刀が木刀であることに怒った余呉が決闘を始めた。最後に狭い家の中で酒に酔っていた余呉の振り上げた太刀が欄間にささり清兵衛が勝つ。
 任務を終えた清兵衛は待っていてくれた朋江と結婚し、しばらく幸せに過ごす。しかしまもなく始まる明治維新の戦いで死んでしまう。
 清兵衛の真面目な生き方が、娘大事にも拘わらず命を賭けて決闘せざるをえなかったところに不条理がある。余呉も自分を浪人という窮地から救ってくれた改革派のために働いて結局命を落とすというところに不条理がある。さらには余呉が武士の意地で決闘して死んだのも不条理といえる。家族のため、上司のため、面目のため生きることが自分の命を賭けるという江戸時代の自己を抑圧した不条理がいろいろ垣間見える。これだけの抑圧が精神にどのような影響を与えていたのかが興味深い。


■こころ42
日本神話と精神医学-42- 「ワタツミ三神」
 ワタツミはムナカタ、スミノエと同じく三神で出現している。上中下と3分並列するのは海人族の神話に多くワタツミもスミノエもムナカタも海神である。ワタは海のことである。黄泉の国から脱出してイザナキが日向のアハギハラでミソギをした時にスミノエ三神とともに底津綿津見、中津綿津見、上津綿津見が化成した。信州安曇野にも居住していた阿曇の連がこの神を祖先神としていた。このことから海人族が信州内陸部にも移動していたこともわかる。

 日本は海に囲まれており、日本神話にも海人族と関連する氏族の祖先神がこのように入っている。自然の地形、地理が日本神話に日本の精神に反映するのは当然であり、和辻哲郎の風土が評価されているのも頷ける。こころの出来事は直接目に見えないからある風土・気候・天気などもこころの出来事を喩えるのに使われる。自然現象の心身への影響がストレスや感情の変化による心身の変化と類似している故に自然現象によっても喩えられるのである。例えば大海原のようにゆったりとした現象とこころのゆったりとした状態、天気の晴れとこころの晴れやかな状態、天気の曇りやうっとうしさとこころのくもり、うっとうしさは深い意味で相互に関連している。

―人格障害(2)― 妄想性人格障害
 妄想の定義は周りが訂正出来ない誤った確信・信念である。その人の確信していることを訂正出来るなら妄想といえないので、妄想には説得は逆効果である。このような固定した妄想を持つ妄想性障害とは違って、妄想性人格障害は固定した妄想が欠けていて妄想様観念を持っている。幻覚や思考障害を持つ妄想型統合失調症と違って幻覚や思考障害はない。さらに他人と複雑な込み入った関係になる境界性人格障害、反社会的行動の長い病歴のある反社会性人格障害、引きこもり孤立する統合失調症質人格障害とは区別される。この型の人格障害は人間に対する不信により特徴づけられ、敵対的攻撃的である。偏屈者、嫉妬深い配偶者、訴訟好きな変人はこの型の人格障害である。人格障害故に治療を求めることは少ないが、家族や雇用者によって連れて来られることがある。

以上のようにこの型の人格障害は被害的であり、人を信用できず、自分のことを人に言えない。恨みを抱き続け、ささいなことに攻撃的になり、配偶者の不貞を疑いやすい。患者は自分の感情を外に向け、他人からのものと感じる。つまり自分自身受け入れられない衝動や考えを他人のせいにする。患者自らは合理的客観的であることを誇るが、暖かみにかけ能力や階級に心酔する。弱者・病人・障害者に軽蔑をしめす。

治療は主として精神療法である。治療者が非難されるなら言い訳せず真実を言ったり謝罪した方がいい。妄想的批判に対して患者に恥をかかせることなく穏やかに現実的に処理されなければならない。患者が望まない限り必要以上の制御や脅威はさけるべきである。

映画の話しあれこれ24 「マイノリティー・リポート」
 2054年ワシントンでは犯罪予防局が設立され6年たっている。未来を透視できるプリコグ(予知能力者)・アガサ(サマンサ・モートン)と双子の姉妹3人がキャッチした未来を犯罪予防局が測定・分析して事件を起こす前に犯人を逮捕し、ほとんどの殺人事件を防げるようになっていた。犯罪予防局を全国規模にするかどうかの国民投票を前にして司法省からウィットワー(コリン・ファレル)が予防局に人為的ミスがないかを調査しに来た。犯罪予防局チームを率いてきた主任刑事ジョン・アンダートン(トム・クルーズ)がウィットワーをプリコグ達が浮かぶ水槽に案内していた合間に、アガサがジョンにしがみつきアン・ライブラリという女性が溺死させられたプリヴィジョンをジョンに見せた。ジョンはアガサのこと、司法省の調査のことを自分の妻ララ(キャサリン・モリス)の父親であり、かつ犯罪予防局長であるラマー・バージェス(マックス・フォン・シドー)に相談したら心配はないと言われる。その頃ウィットワーはジョンが実はドラッグ常習者であることを見つけた。ジョンは6年前自分の息子を誘拐されておりその後妻とも別居して心を癒すためにドラッグに溺れざるを得なくなっていた。

 一方局に戻ったジョンはジョン自身が殺人を犯すという予知を受け取り愕然とする。このシステムにより捕まった犯罪者たちがカプセルに眠らされているのを知っており、自分の後がまを狙っているウィットワーの罠だと思ってここは逃げるしかないと決断する。犯人逮捕のためのその頃の最高技術を持った元仲間達に追われ、本人を網膜で確認し逮捕する蜘蛛型ロボット・スパイダーを避け、本部侵入のためにジョンは自分の目を他人の目と入れ替える。かろうじて追跡を振り切ったジョンは犯罪予防システムの生みの親アイリス・ハイネマン博士(ロイス・スミス)の家に乗り込み、プリコグのビジョンが一致するとは限らないという事実とビジョンの一致しないマイノリティー・リポートは捨てられるということを知ってジョンは戦慄する。自分の犯罪の間違いとマイノリティー・リポートの両方が犯罪予防局の全国化への障害であるが、ジョンは当時予防できなかったアン・ライブラリー事件の報告書がぬきとられており、アガサの脳にあるそのマイノリティー・リポートのオリジナルを求めれば自分の罪とシステムの欠陥を暴けると考える。取り出した自分の網膜を使って予防局に侵入し、アガサを連れ出しマイノリティー・リポートを得ようとしたジョンは警察に追われながらまさに自分が犯すと予知された殺人現場に到着する。そこには自分の息子の誘拐殺人者と思われる人物が息子を含めた子供達の写真をおいてあり、ジョンは逆上する。犯人と思われた人物と出会って殺そうとするが踏みとどまる。しかし誘拐犯と思われる人物が俺は死なないと金が入らないなどと言ってピストルを握っているジョンの手の上から引き金を引いた。ジョンは予知どうり殺人を犯したことになり、ますます窮地に追い込まれる。

 しかしウィトワーはジョンが罠にはめられていることに気づき局長ラマーに報告するがなんとラマーに殺されてしまう。ジョンは最後に妻ララのところに逃げ込み妻の父ラマーに報告する。ラマーはそれを聞いたとたんにジョンを逮捕しに行く。ラマーの裏切りによりジョンは自分を陥れた犯人がわかったが逮捕されてカプセルに眠らされてしまう。しかし妻ララは自分の夫を裏切った父に対して、カプセルに眠らされているジョンの所に行きジョンを救う。ラマーはプリコグの予知を混乱させて、アンを本当に殺すために、自分でやとった犯人にアン・ライブラリーを殺させようとし、部
下に直前に逮捕させる。その直後にラマーは犯人と同じ服装をしてアンを殺したのである。実はアンはプリコグ・アガサの母であり、アガサを取り戻そうとしていた。アガサが取り戻されたら犯罪予知が成立しなくなると思ってラマーはアンを殺すのである。ラマーは犯罪予知を全国的にするために何人もの人間を犠牲にしてきたのでありやっと日の目が見えようとしたときに予防局の予知でラマーが人を殺すと判定される。予防局が全国的規模になったお祝いの席でラマーの悪が暴露される。追いつめられたラマーは最後には娘と娘の正義に感化されて犯罪予知に間違いがあることを示すために予知とは逆に自殺する。

 通常の予知は超能力であり、精神医学とは無関係であるが、心理的には予知夢などが研究対象であり将来の出来事と一致する夢が現れたりする。しかし将来の予想は誰にもあり、それがたまたまあたることもあり超能力とは言えない。しかし予感・予知はそれなりの意味があり、無意識のうちに何か全体的なことをつかみ取って予感・予知することがあり分析することは大事である。この映画は予感でなく予知がテーマになっていて非現実的であるが、結果的には予知が社会的に受容できない問題を含むという納得出来るものになっている。


■ こころ43
日本神話と精神医学-43- 「火と多産」
 オオゲツヒメとウケモチについてその死体から種々の食べ物が産まれたことは前にも書いた。ウケモチの死体から牛馬、粟、蚕、稗、稲、大小豆、オオゲツヒメの死体から蚕、稲、粟、小豆、麦、大豆などが産み出されている。さらにウケモチは生きているときも飯、ハタ(海)のヒロモノ、ハタのサモノ、毛のアラモノ、毛のニコモノ(けもの)などを産み出している。民間伝承では山姥が焼き畑と関係していることが指摘されており、山姥(山)が焼かれたり、死んだりして作物が産まれている。イザナミの場合もホノカグツチ(火)を産んだあと冶金、窯業、農業などの神々が誕生し、その子孫のワクムスビから種々の農作物が産み出されている。

 このように火をかけられて死んだものはたくさんの作物を産み出すのである。このことから焼き畑のイメージが山と女性・女神などを結びつけていると考えられる。日本神話でも火の起源・ホノカグツチ(火、輝く、霊)と農作物が結びつけられている。

 精神についても多くの有効な文化的精神現象(学問などなど)は心的エネルギー(象徴としての火)によって産み出されていると考えられる。

―人格障害(3)― 統合失調症質人格障害
 この人格障害は他人には風変わりで孤立しているように見える。当然この人格障害の患者さんたちは社会で仕事を見つけてしていくのは難しいが、仕事があったとしても対人関係の少ない孤独な仕事や夜間の仕事を好む。人格障害すべてに言えるが、容器としての身体に相容れない性格であり、落ち着かなかったり、視線を合わせられな
かったり、場にそぐわない感情を持ち、会話が少なく、ときおり奇妙な言葉使いをする。人が苦手なため生命のないものや抽象的な事に興味をもちやすい。

 以上特徴をまとめると親密な人間関係を持ちたいと思わずに孤立する。異性に対する興味も少なく、喜びを感じる活動も少ない。他人の感情に無関心で感情のよそよそしさ、冷たさ、平板さが見られる。このようにこの人格障害の患者さんは流行に追随することなく非社会的であり、ときに孤独で競争の少ない仕事はうまくいく。ときに一方通行的な思想的運動、社会改良計画、健康法などに夢中になることがある。自己に没頭し白昼夢に耽っているように見える一方、現実認識能力があり攻撃的言動は少なく、患者さんにおこってくる困難は空想的全能感やあきらめによって処理される。ときどき独創的、創造的観念を持ち社会に示すことがある。

 妄想性人格障害と違ってこの人格障害は社会からひきこもり、感情が萎縮している。回避性人格障害と違って孤独を好み、自閉的夢想が多い。治療は人格障害一般と共通した方法に加えて治療者を含む最低限の人間関係を持ち徐々に人間関係を増やしながら他人から攻撃されるのを防ぐ必要がある。

映画の話しあれこれ25 「ギャング・オブ・ニューヨーク」
 19世紀初頭、故郷で大きな飢饉にみまわれたアイルランド人がアメリカンドリームを夢みてニューヨークにやってきていた。しかし彼らの前には厳しい現実が待っていた。彼らの住める場所は安アパート、酒場、売春宿が密集し何組かのギャングたちが殺し合う悪徳と腐敗と混沌の街ファイブポインツのような所であった。ネイティブアメリカンというアメリカ生まれのギャング達がアメリカにやってきた移民をよそ者や侵入者とみなし常に攻撃するのである。ネイティブアメリカンとアイルランド移民の組織デッドラビッツの闘いは激しくファイブポインツの利権を争い雌雄を決する時が来た。この闘いでアムステルダム(レオナルド・ディカプリオ)は父すなわちデッドラビッツのボス兼指導者であったヴァロン神父をネイティブアメリカンのボス・ビルザブッチャー(ダニエル・デイ・ルイス)に殺され、アムステルダムは少年院に送られる。アムステルダムは父の復讐を誓い、16年後再びファイブポインツに戻った。

 ファイブポインツはビルがボスのギャング団が牛耳り腐敗しきっていた。移民や民衆を助けて絶大な人気を誇る政治家ウィリアムス(ジム・ブロードベント)は裏では汚くビルと手を結んでいた。一方デッドラビッツは解散していて父の腹心達はビルの右腕になっていたり、ビルの庇護のもとで悪徳警官になったりしていた。ビルに屈せず散髪屋をしながらしっかり生きてきた凄腕のモンク(ブレンタン・クリーソン)と幼なじみのジョニー(ヘンリー・トーマス)だけがアムステルダムの正体を知る。ジョニーもビルの手下であり、アムステルダムはジョニーと共にビルの配下になって復讐の機会を狙い始める。

 ところがビルが自分の父ヴァロン神父を尊敬していることにアムステルダムは気付くのである。さらにアムステルダムの度胸・機転・腕を気に入ったビルはアムステルダムに目をかけ、アムステルダムの心は少し揺れる。

 ある日アムステルダムはジョニーが憧れていた女性ジェニー・エバディーン(キャメロン・ディアス)と出会い女スリとしてたくましく生きるジェニーの美しさ・芯の強さに惹かれていきジェニーも若者達のダンスパーティーで踊る相手としてアムステルダムを選ぶ。ジェニーはビルと身内のような関係であり、アムステルダムは2人の関係を疑う。アムステルダムはビルを知れば知るほど、ビルの力強さ、信念、自分に対する信頼にアムステルダムのビルに対する憎しみは揺れ、ジェニーとの関係を疑う心も加わって心が定まらない。

 そのうちにジェニーに片思いをしているジョニーがアムステルダムに嫉妬してビルにアムステルダムの正体をばらす。裏切られたビルは怒りに燃え、自分の右腕と信頼しジェニーとの関係を許してきたアムステルダムを死一歩手前まで叩きのめした。ジェニーは献身的にアムステルダムを看護し、やがて回復したアムステルダムに夢のある西部に逃げようとすすめるが、アムステルダムはその言葉に耳をかさず、デッドラビッツを再構成するがそんな中でモンクはビルに殺される。とうとう二つの組織が雌雄を決するという日にニューヨークに大暴動がおこる。

 当時ニューヨークは南北戦争が激しさを増し、アメリカ史上初の徴兵制が始まり、金持ちがお金で徴兵を免除されるため貧乏人だけが戦争に行く制度に抗議する人々がニューヨークはもちろんあちこちで暴動をおこしていた。国はそれに対して軍隊を出動し、ニューヨークは何日かで鎮圧された。その結果アムステルダムとビルは決闘しながら、2人の命もニューヨークで生きる他の人々の愛、復讐、命と共に、軍隊の砲撃をうけて失われた。

 日々生きていくために命を懸けて勝者とそれに従うものだけが生き残るすさまじい世界。この当時のニューヨークギャングの世界は実に厳しい環境であり、このような環境に耐えられる人だけが生き残っていける凄まじい世界である。通常の常識的精神構造では考えられない限界状況とも言える。逆にこのような限界状況でも適応できる人間がいるということに人間の精神の強靱さを感じ強くしっかりあるいはどうにかうまく生きていくための参考になる。


■ こころ44
日本神話と精神医学44- 「肥長姫」
 言葉の話せなかったホムチワケが出雲の国造の祖キヒサツミに供応を受けた日に言葉を喋ったことが古事記にのっている。そのあとホムチワケは出雲の肥河の蛇身である女神ヒナガヒメと婚ったのち姫がオロチであることが分かったとたんにホムチワカは恐れて逃げる。ヒナガヒメが追ってきたのでさらに逃げあがる。

 ホムチワケの母サオヒメが水神・竜・オロチの化身の一面があると同時に自分の妻にも水神・竜・オロチの化身を見たホムチワケは結婚に失敗するのである。やっとのことでサオヒメという母の呪縛が解けて喋れるようになり、結婚できたにも拘わらず、妻のなかに母と同じオロチを見て結婚に失敗する。自分の妻のなかに母に育てられた結果起こってくる不快な一面を見て結婚がうまくいかない、すなわちのエヂプスコンプレックスあるいはマザーコンプレックスの裏返しである大人になりきれないマザーコンプレックスと言える。裏返しである故に母や妻がオロチ(ペニスの象徴)になっているともいえる。

―人格障害(4)― 統合失調症型人格障害
 患者さんは著しく風変わりで奇妙である。魔術的思考、独特な信念、関係念慮、錯覚、現実感喪失は日常生活の一部になっている。統合失調症の患者さんと同様に自分自身の感情には鈍感で他人の感情には敏感である。迷信深かったり、千里眼的なことを感じる。心は恐怖と空想で満たされ、特別な思考力、洞察力を信じている。話言葉は奇妙で変わっており、対人関係は少なく孤立している。親密な関係が急に気楽でなくなったり、親密な関係を持つ力が弱い。社会的適応が難しい。ストレス下では精神病症状を示す。

 奇妙な行動、思考、認識、奇妙な疎通性によって他の人格障害とは区別される。精神症状がないことで統合失調症とも区別される。奇妙な行動もあることから妄想型人格障害とは区別される。比較的自殺率が高い。統合失調症と同様に抗精神病薬が効く傾向がある。統合失調症質人格障害と同様、被害意識を感じない環境が大事であり信頼関係構築に努める。

映画の話しあれこれ26 「ボーン・アイデンティティ 」
 嵐の地中海で海面に浮かんでいた男(マット。デイモン)が漁船に救いあげられる。その男は全身に銃弾を浴び、弾丸が取り出されたときに、皮内に埋め込まれていたカプセルも見つかった。意識をとりもどした男は自分が誰だか分からない。その身体は頑丈で相当戦闘能力を身につけており、反射的に他人の不審な動きに反応するのであった。イタリアに着いた漁船から下りた彼はカプセルに書かれてあったスイスのチューリヒ銀行に行く。チューリヒ銀行の彼の金庫には大金と拳銃、パスポートなどがあった。パスポートを見て自分がジェイソン・ボーンであると分ったのもつかの間、別のたくさんのパスポートもありそれぞれ自分が違った国籍、名前を持っていることが分かる。ただごとではないと知った彼は急いで銀行を後にする。その晩野宿をしようとしたとき、警官2人に調べられそうになったがあっという間にその警官2人を倒してしまう。

 その頃CIA本部の重職についていたテッド・コンクリン(クリス・クーパー)はボーンが生きていることがわかる。任務に失敗し、訳の分からない行動をしているボーンをCIAの陰謀を知っているため危険と判断し世界中の殺し屋を使って殺そうとする。殺気を感じ始めたボーンはアメリカ大使館に救いを求めに行こうとしたが、前夜に起こしていた警官への暴力のため警官に追われ大使館をかろうじて逃走し、大使館周辺で車を停めていた一人旅のマリー・クルーツ(フランカ・ポテンテ)に大金を渡しパリに連れていってもらう。パリのボーンの部屋に着いて休息していたところに殺しやが飛び込んでくる。殺し屋をやっとのことで片づけたのち、そこにもおれなくなった2人は空き家と思われるマリーの知人宅に身を寄せた。しかしそこにも殺し屋があらわれ、ボーンはやっとのことでこの殺し屋も殺す。殺し屋が死ぬ間際にCIAのテッドのことを聞き出し、ボーンはテッドと対決することになる。テッドとの闘いの間にボーンが暗殺者で、今回CIAの指示でアフリカの指導者暗殺に失敗したことを思い出す。まさにテッドと雌雄を決しようとしたときにテッドは上司の政治家に殺されてしまうのである。とうとうボーンはテッドから解放されたのであった。その後ボーンは大金をあげて別れたマリーが現在生活をしているところを訪れ2人に芽生えた愛を確かめるのであった。

 記憶喪失は現在の自分が自分にとってあまりにも苦痛であり不快であり、それを持ちこたえて行く自分が弱く、別の自分に逃亡したくなったときに起こりやすい。現在の自分のアイデンティティが消えるのではなく意識しなくなるだけだがこの疾患は以前は心因性健忘、現在は解離性健忘と言われる。解離性健忘を起こしにくいと思われる暗殺者ボーンがこの疾患にかかった説明として、子供を見て暗殺に失敗した良心、その良心と暗殺の根源的矛盾、銃弾を浴びせられた身体的極限状態などが引き金になったと思われる。


■ こころ45
日本神話と精神医学-45- 「磐船」
 水上はるかな世界・常世の国から神がこの世に訪れるときにはその聖なる出来事には中空の舟形の容器が大切な仲介物になる。天の稚彦に入れ知恵をして雉を射殺させた天の探女も磐船で渡来している。物部氏の祖先ニギハヤヒも天神の命を受けて天の磐船に乗って天より降り河内の国河上のイカルガノタケに坐した。このように神が天空を天翔けたり、海の彼方の世界に行くにには船によると考えられている。さらに磐船と形容されているのは実の磐ではなく堅いという意味であろう。しかし各地には磐の船の信仰があり天降りの神の伝説と結びついている。神の乗り物には他に蛭子が乗せられ海中に棄てられた葦船あるいは磐楠船がある。楠船は実際に発見されており原始的な船と言えるであろう。スサノヲの尊がヒゲを抜きて散らすと杉になり、眉の毛はクスになり、浮き宝となすべしと言ったことから杉とクスが船に使われていたことが分かる。海洋民族でもある日本人が移動する乗り物に船という発想は当たり前すぎるであろうが荒れやすい海、人生を航海するのに大きな丈夫な乗り物があれば渡りやすい。人生という航海のための堅くて包む形の磐船にあたるのは親や先生・組織などの頼れる人物・人の集まりといえるであろう。それがないと転覆しやすいのは当然であろう。

―人格障害(5)― 反社会性人格障害
 反社会性人格障害は継続的な反社会的犯罪行動によって特徴づけられる。青年期・成人期における社会的基準に従う能力の欠如と考えられる。例えば法に従えない、人をだます、衝動的・刹那的である、易努的攻撃的である、安全を無視する、無責任である、良心がないなどの特徴がある。障害の発症は15歳以前であり、少年の方が少女より早い。患者は落ち着いて信用できるようにみえるが、その見せかけ・正気の仮面のしたには緊張・敵意・焦燥感・怒りが存在する。幼児期の微細な脳損傷を示す脳波異常や神経学的兆候が多い。

 反社会的人格障害はしばしば正常に見え、魅力的で愛想がよく見える。しかし生活領域において虚偽・ずる休み・家出・盗み・けんか・物質乱用・不法行為は子供の頃から始まる。華やかで誘惑的に見えるが、操作的自分本位である。状況から当然不安や抑うつがあってもいいのにない。自分の反社会的行動の説明は出来ない。自殺の恐れや身体へのとらわれはあるが妄想や思考の異常はない。比較的言語知能は高いようである。詐欺師のように巧みに人を操り、金銭や名誉のため陰謀や陥れをたくらむ。真実は語らず、仕事はできず、道徳にも従わない。乱雑さ、虐待、飲酒運転は一般的である。それらの行動に反省はなく、良心を欠いているように見える。

 物質乱用との鑑別は難しくともに小児から始まるなら両方の障害といえる。反社会的人格障害が小児期から始まり、青年後期に反社会的行動の頂点に達する。

 治療には自助グループが有用であり、仲間のなかにいると感じれば変わろうと言う気がおこることもある。当然確固とした制限が必要であり、自己破壊的衝動の処理方法を見つける必要がある。親密になることへの恐怖や正直な出会いから逃げ出したい願望を阻む必要がある。懲罰と制御の区別、隔離・審判と救助・直面化の区別が目標になる。薬物・物質乱用に注意して不安、怒り、抑うつなどに薬物を使う。

映画の話しあれこれ27 「黄泉がえり 」
 九州の阿蘇にある村で死んだ人が次々と蘇ってきた(黄泉がえり)。それは死んだ時そのままの姿であった。始めは86歳のさき(北林谷栄)のところに戦死した夫との間に生まれた勝男という少年が56年前、森で行方不明になった当時の姿で蘇ってきたのである。厚生労働省のエリート役人川田平太(草なぎ剛)は自分の故郷でもある阿蘇にこの不思議な現象を調査しにきた。故郷に帰って最初に平太は幼なじみの葵(竹内結子)のアパートにやってくる。村の役所に努めていた葵は自分の恋人であり、平太の親友であった俊介を亡くしていた。葵は平太と協力してこの不思議な現象を調べ始めた。ところで葵はアパートに着く直前に知人の車に乗せてもらって、うとうとしている時にその車ががけから落ちて葵の安否がどうなったのかと思っていたら突然自分のアパートの前に現れたのである。

 同級生のいじめで自殺した山田(市原隼人)が本人の葬式の最中に蘇ってきた。彼は誰にも好かれていないと思っていたが、彼を密かに好いていた女生徒(長沢まさみ)がいたのである。若くして夫を亡くした玲子(石田ゆり子)は密かに想う店員英也(山本圭壱)に助けられながら食堂を経営していたが、玲子のところにも喧嘩騒ぎで亡くなった夫周平(哀川翔)が戻ってきた。玲子を愛していた英也は相当落ち込んでしまうがそこに中学生の頃なくなった兄優一(東新良和)が蘇ってきた。2人は両親を亡くしたあと施設で助け合いながら生きてきたのだが、その兄が病気でなくなったのである。そのことは英也の深い心の傷であった。医師の斉藤(田中邦衛)は聴覚障害者である妻園子が子供幸子を産む時に亡くなって以来、独身を通し男手一人で一人娘幸子を育て上げ、幸子は聴覚障害の亡き母への思いもあって障害児の先生になっていた。その斉藤のところに園子が蘇ってきた。

 平太が調査するうちに黄泉がえりにはある傾向があることが分かってきた。ある場所を中心にして半径ある範囲で蘇っていたのである。また蘇った人の遺骨や身体の遺物がその範囲にある必要があった。さらに中心からある範囲の外には蘇った人は出られない。もっとも重要なことは蘇った人には今でも心からその人を愛し続けている人がいるということであった。黄泉がえりの中心にはかなり奥深くに得体の知れないものがいるらしく不思議なリズム信号を送っていた。

 黄泉がえりの事実を知るにつれ葵はだんだん俊介の黄泉返りを願うようになり、混乱しはじめていた。丁度そのころ蘇った人たちが急に倒れて、意識を回復したときには自分たちに残された時間はわずかであることが分かる。同じ頃偶然玲子も倒れて脳腫瘍であることが分かり手術を受けることになる。蘇っていた周平と優一は平太・英也を通して知り合いになっており、手術の成功を見届ける。残りわずかと知った周平は英也に玲子を頼む。

 葵もこのとき自分の乗っていた車ががけから落ちて自分がいったん死んで蘇っていたことがわかるのである。そして本当は平太が自分を愛していて自分を蘇らせたのが分かったのである。また平太のもとにも葵が車の事故で亡くなったことが知らされ、平太は葵の気持ちを汲んで俊介を蘇らせるために俊介の角膜を保管している離れた場所まで取りに行くのであった。

 蘇った人たちが消えていく時刻にしばらく世の中から消えていたルイ(柴咲コウ)とサク(村井克行)という非常に有名な歌手と作家が何年ぶりかで阿蘇の黄泉返りがおこる場所でコンサートを開くことになり日本中の若者が阿蘇に集まり始めていた。超満員になり身動きの出来ないその場所周辺で、そのデュエットの歌をみんながききほれているなか、平太は俊介の角膜をもって葵に携帯で連絡しながらある場所で落ち会おうとし、葵は俊介への気持ちよりもいま生きている平太への気持ちを受け入れたことを伝えようとしてやっとのことで二人は出会う。その瞬間葵は輝く緑のチリとなって消えてしまうのである。しかし二人の愛や気持ちは伝わったようであった。黄泉は日本神話で語られているように生者が経験出来ない死者の世界である。しかし愛した者を亡くした人には黄泉に行ければ行きたいあるいは死者が黄泉から帰れるなら帰って欲しいという願望が強い。この愛をベースにしてうまく伝えられなかった恋愛感情の難しさ、どうにか伝えられたという幸せ、さらに結局は別れなければならない悲しみをこの映画はテーマにしている。主演の草なぎと題名黄泉がえりはともに日本神話と関係が深いのもおもしろい。


■こころ46
日本神話と精神医学-46- 「天地開闢 」
 天地が初めて現れたときに高天原になった神はアメノミナカヌシ、タカミムスヒ、カミムスヒである。中という概念とムスヒ、創生という概念さらにタカミとカミの2項対立などが問題になる。この2項はアメツチすなわち天地やアメとクニから来ている。主やカミという言葉も重要であろう。クニが稚くクラゲのように漂っている時に葦牙のように萌えるものによってたった神はウマシアシカビヒコジ、天の常立神であり、これらの5神は別天神コトアマツカミといわれる。また、海・川の近くで葦が生い茂っている所の大地の重要性、ヒコや常しえや立つという概念、さらに5という数字の重要性が分かる。

 混沌とした状態から世界が二つに別れて、中心が出現という現象はすべてにはてはまる。天と地・国という二つの概念は明らかに強弱、優劣、高低、支配・被支配を連想させる。永遠、自立などの基本的言葉がでてきており、以上の世界にいるのが主であり、カミである。ヒコから日子が連想され太陽の子孫と考えられる者の存在も主張している。以上の記述は奇数の5がでてきていることと併せてかなり抽象的観念的記述と思われる。

 精神の混乱を認知的に分化させることにより精神の安定への始まりとなることを示唆している。

―人格障害(6)― 境界性人格障害
 人格障害のなかでも境界性人格障害は一番関心がもたれ、長く、深く研究されてきている。境界の意味は色々あり、神経症と統合失調症との境界疾患であるとか、多量服薬、手首の自傷などの問題・衝動行動が自殺までにはならない境界的出来事であるとか、境界例の無意識的病理が自分の周辺・他人との境界での混乱と考えられていることからくる。

 境界性人格障害の患者さんは基本的には不安で定まらない気持ちを持っており、自己・自分が分裂せずに、感情・無意識などが断裂している。自己・自分がまとまりを維持している故に、心・無意識の不安定な動きは周りの人を混乱させ、巻き込んでしまう。さらに境界的出来事である故に自分の意識も届かずに自分の不安定な衝動的な心の動きを他人の心の中に感じ取り、自分の心が混乱しているにもかかわらず、他人の態度・心が自分を不安定にさせていると感じやすい(投影性同一視)。

 常に危機的状況にある境界性人格障害の患者さんは通常の不安と違って精神の断裂に近い形で感情・無意識が断裂している。すなわち今落ち着いていると思えば急に怒り出したり、今泣いていると思ったら急に笑い出したりする。他人に対してもこきおろしたり、尊敬したり急激な態度変化をとる。これらの激しい問題行動、態度はこのような深刻に断裂した心の不安定感から起こる。この不安定感は底なしでまわりの人による暖かい安心感を与える関わりも受け止められることなく、底なしの不安定感に吸収され際限のない疲労感・無力感を周りの人に感じさせやすい。患者さんは他人に対する依存と敵意がありそれがころころと急変し、安定した人間関係をもてない。

 治療において問題行動・行為化に対するには枠組みやけじめを守らせることから始まる。さらに行動療法的訓練をしたり、入院をして集団精神療法を受けることが適当である。薬物療法も重要である。

映画の話しあれこれ28  「青の炎」
 櫛森秀一(二宮和也)は湘南の高校に通う頭のいい一見普通の17歳である。彼は女手一つで家計を支えている美しい母・友子(秋吉久美子)と素直で明るい妹・遙香(鈴木杏)との3人暮らしだが、その平和な生活を乱す男が家に無理矢理同居を始める。母はその理由を語ろうとしないが、10年前離婚した元義父の曽根(山本寛斉)であり、家に居座り続け、傍若無人に振る舞い、酒ばかり飲んでいる。母が離婚した時に相談した弁護士への相談もあまり役に立たず、彼は曽根を殺す決心をし、完全犯罪をめざす。インターネットのサイトで色々な準備を始める。決行日になり美術の時間に外で絵をかくと言って抜け出し、隠してあったロードレーサーで自宅に帰る。節酒剤を以前から少しずつ飲ましていた曽根は簡単には目をさまさずに感電死させることが出来た。警察の調べでも一応病死となった。しかし優秀な刑事・山本(中村梅雀)はこの事件に不審な点を嗅ぎ取っていた。

 事件が一応一段落した頃、秀一の友人で学校を休んでいる石岡拓也に一部を見られていてゆすられる。秀一は石岡も殺すしかなくなる。石岡は頭が少し弱かったのか秀一の努めているコンビニの金を強盗すればいいと言う秀一の計画に乗る。石岡は強盗の芝居をしているときに秀一に殺される。事件後同級生の死に対して秀一が堂々とした態度で学校に出席するのにみんなは違和感を感じる。秀一に関心を持っていた女生徒福原紀子(松浦亜弥)も秀一の事件に不審を感じる。福原は秀一が絵の時間に抜け出した時に校庭でいるはずなのにいなかったことを知っていた。

 石岡の事件も調べることになった刑事山本はビデオに映った石岡の動きに疑問を感じる。店に入ってきて最初に店に客がいないかを調べていないことや、石岡の持ってきたナイフ(偽物)で秀一には傷が付いていないこと、さらに本当は秀一が準備していた石岡のものと主張したナイフがささった時の位置関係など疑問点が一杯であった。とうとう石岡の部屋から曽根殺しに使ったと思われる感電装置などが発見され二人の殺しの犯人と割り出され、追いつめられていく。

 また曽根が家に居座り続けたのはガンの末期であり、秀一の妹は曽根の娘であり残りの時間を娘と一緒に暮らしたかったことがわかる。このような事実が明らかになり自殺せざるを得なくなってロードレーサーに乗ってダンプカーに飛び込む。

 青は青春、青少年、ブルーの青であり、炎はロウソク、エネルギー、燃え尽きるなどを連想させる。このようにこの映画は青少年の宇安定な衝動的な心を描いている。まわりの出来事や周りの人間の心の動きは充分に把握できずに、自分の世界の中だけで行動化していく青少年の心の動きを蜷川監督は鋭く描いていると感じた。


■こころ47
日本神話と精神医学-47- 「天のうけい 」
 スサノヲの命は根の国に行く前に高天原の天照大神に暇乞いに行く。アマテラスはスサノヲが物凄い勢いで上ってくるのでスサノヲを疑う。スサノヲは高天原を支配する意図はないと言ったがアマテラスは安心出来ずに2神は天の安河でうけいすることになった。アマテラスはスサノヲの十握の剣をこいうけて三段に折り天の真名井にふりそそぎ、口に入れて噛み砕き狭霧のように吹き出した。その結果三柱の女神が生まれる。次にスサノヲはアマテラスのつけていた八尺の勾玉の五百津の御統の珠を乞いアマテラスと同じようにすると五男神が生まれる。スサノヲはアマテラスと同様に子供を産むことができたのである。従ってアマテラスと同じくらいには心が清いことが証明できたことになる。しかしいくら清いといってもアマテラスの場合はスサノヲを疑い簡単には安心出来なかったのであるからスサノヲの清らかさもその程度であろう。すなわちスサノヲの高天原の行動にも当然色々な問題が生じるのである。その後スサノヲは高天原で乱暴狼藉の限りをつくす。その結果アマテラスが天の岩屋戸に閉じこもる。このアマテラスの自閉的性格に加えて元々スサノヲを疑って安心出来なかったという被害的意識がアマテラスの特徴でもある。もちろんスサノヲには周りが困るにも拘わらず秩序を壊すという傾向があったからアマテラスが疑ったのか、アマテラスが疑ったにも拘わらずスサノヲの潔白が証明されたのでスサノヲが 我が物顔に振る舞ったのかはどちらが真実かは分からない。一人一人の体験は一人一人にとって事実であり、事実は一人一人違うということである。神や尊・命ですら不完全であるのに、元々不完全で限界のある人間が捉えられている事実は全体的真実ではなく真実の一部であり、ひとりひとりの事実は重ならなくて当然である。

―人格障害(7)― 演技性人格障害
患者は興奮しやすく、感情的で、華やかで劇的外向的な傾向が強い。目立ちたがり屋で性的誘惑的挑戦的でもあり、感情的表出・身体的表現が目立ち内容があまりないにもかかわらず印象的な過度な表現を用い芝居がかっており、他人に影響を受けやすく被暗示性が強いという特徴がある。
 内面の空虚さを外面で補い、現実のストレスや現実への直面化に対して解離や抑圧の防衛機制を使う。すなわち現実検討能力が落ち、いやな出来事を忘れてしまったりなかったことにする。外面を強調したり、大事にする故に外面を無視されたり内面の問題を指摘されたりするとかんしゃく、涙、非難などを引き起こす。性的には不感症や不能のこともあり、その問題がないかのように魅惑的に振る舞う。対人関係も外面的表面的で、内面の空虚さを補うかのように薬物・アルコール乱用したりする。治療は患者が気付いていない内面の情緒的葛藤を気付かせることが重要である。薬物は幻覚、抑うつ、身体化などの目立った症状に対しては有効である。

映画の話しあれこれ29「戦場のピアニスト」
 1939年ナチスドイツがポーランドを侵略した時ウワディスワフ・シュピルマンはワルシャワラヂオ局でショパンの演奏していた。ナチスドイツの爆撃は放送局をも破壊し、シュピルマンもやむを得ず逃げ出した。そのとき親友の妹ドロタ(エミリア・フォックス)と出会う。ドロタはシュピルマンを憧れていた。
 一方英仏が独に宣戦布告したと自宅のラヂオで聞いていたシュピルマン一家は喜んだ。しかしこれから起こる恐ろしいことをこの家族は知る由もなかった。ドイツに占領されたポーランドではナチス・ヒットラーの方針によってユダヤ人は狭いゲットーに追いやられるのである。ユダヤ人であるシュピルマン一家もゲットーに移り仕事も簡単に見つからなかった。どうにかシュピルマンはゲットー内のカフェーでピアノ弾きの仕事にありつく。ゲットー内ではドイツ兵やドイツに操られたユダヤ警察がユダヤ人狩りやユダヤ人虐殺を繰り返していた。シュピルマンの弟ヘンリク(エド・ストッパード)もユダヤ人狩りで捕まり、シュピルマンは知人でありユダヤ人警察官のヘラーに頭を下げて弟を助けてもらった。
 1942年ドイツ人のための労働証明書がないと収容所送りになるという噂を聞いてシュピルマンは必死になり、地下活動家マヨレクにたのんで一家の労働証明書をとる。しかし証明書は単なる一時しのぎであり、シュピルマン一家を含む大勢のユダヤ人が収容所に送られる。しかし収容所に送られる直前にシュピルマンだけがヘラーによって助けられる。家族とはその後二度と会えなかったのである。
 収容所送りを逃れたシュピルマンはマヨレクのいたユダヤ人肉体労働グループに入るが、ユダヤ人労働者達はナチスにとって役に立たないと判断されたらいとも簡単に殺されるのである。彼はドイツに対して抵抗・蜂起の準備しているマヨレクにたのみ、シュピルマンの友人であるポーランド人歌手ヤニナに連絡を取ってもらい、ゲットーから脱出し隠れ家を用意してもらって一人で住む。しかしヤニナ自身も捕らえられ、隠れ家も危なくなり、ヤニナに教えてもらった人物に救いを求めに行く。驚いたことにそこにはドロタがいたのである。ドロタはその主人に嫁ぎ、子供をみごもっていたのである。二人は音楽を通して愛を育むはずであったがナチスが二人の愛を引き裂いたのである。ドイツ人占領地のすぐ近くの隠れ家は灯台もと暗しで比較的安全であったが、そこの生活も大変厳しく肝臓の病気になったりしながらも生き延びたが、やがてドロタが別れを告げに来る。ドロタと別れてのちワルシャワ蜂起が始まり、街が戦場になり、瓦礫の山の中でシュピルマンは想像上のピアノに向かいながら生きながらえる。ある日建物の一室に本当のピアノが置かれてあるドイツ人兵隊の集会場所の屋根裏近くでシュピルマンはドイツ人将校に見つかってしまうが、自分はピアニストであると主張したため、その将校にピアノを弾くよう命令される。シュピルマンの演奏を聞いた将校は彼がユダヤ人であるにも拘わらず、あまりの演奏の素晴らしさによりシュピルマンをその音楽を助けざるを得なくなる。
 やがて戦争は終局に向かい、ソ連の参戦もあり、ドイツはポーランドから去りシュピルマンも解放されるのである。戦後シュピルマンはポーランドにて演奏活動を続けたが、戦争中は家人と引き裂かれ、命の危険に何度もさらされながら、ピアノが彼を支え続けた。このようにピアノの才能が彼を救い、彼を支えてきたのだが、一般的にひとつの信念・才能が人を救うというテーマとともに多くの仲間が武装蜂起して死んでいったにも拘わらずシュピルマンは逃げ隠れまわり後悔の念に苛まされる。
 しかし彼の音楽は生き続けたのである。完璧な人はどこにもいないし一つでも素晴らしいものを持っているだけで元気に活動し続けられるのである。シュピルマンはドイツから確かに逃げ回ったのだが、彼が悪いことをしたのではない。従ってこういう生き方の意味も考えさせられる。。


■ こころ48
日本神話と精神医学-48-  「巫女の死 」
 ヤマトトトヒモモソヒメや天服織女はともに女陰を突いて死んでいる。さらにモモソヒメは占いの場で神の言葉を伝える役をしており、ハタオリメは忌服屋で神衣を織っていて共に呪的巫女的存在である。このような巫女の死に方はかなり特異的である。
 一方三輪のオオモノヌシが丹塗り矢になってセヤタタラヒメと通じる話もあったり、日光が女陰を突いて生まれた赤玉がアメノヒボコの妻になる話もある。このように女陰を突くことが神との交わりを表している。ところがモモソヒメやハタオリメなどの巫女は死んでしまう。神との交わりが御子の出生だけではなく、死という結果にもな
る。
 出生と同じく死もある意味では再生あるいは新しい神的世界への生まれ変わりを示唆していると思われる。このように仏教だけでなく、神話のなかにも神的世界への生まれ変わりを示唆している部分があるのはおもしろい。精神も新しく生まれ変わっているが本格的な再生は激しい変化の後で生まれるのであろう。

―人格障害(8)― 自己愛人格障害
 自己愛・ナルシズムとは自分の興味・関心が自分自身にのみ向かうことである。当然自分が重要人物であるとか自分は素晴らしいと思う。しかし他人にも認められる本当の自信と違って、自己愛は他人とは無関係に生じる感情であり非常に不安定な側面がある。
 この人格障害の患者さんの特徴は自分が重要人物であるという誇大的な感情を持ち自分を特別と見なし、他人に特別な待遇を期待する。批判をまともに聞かずに非難に対して立腹する。しばしば名声や富を望み自分独自のやり方を押し通すので行動規則をよく破り、人をよく怒らせる。自分への関心が強すぎて他者への感情移入が難しく、非常に利己的といえる。そのため対人関係がうまくいかずに自尊心も傷つきやすく抑うつ的になりやすい。その他限りない成功、権力、才気、美しさ、愛などの空想に捕らわれたり、自分が特別で独特なため特別地位の高い人にしか理解されないと信じていたり、特権意識を持っていたり、共感が欠如したり、他人に嫉妬する。
 治療は患者さんの自己愛を傷つけないように関わる必要がある。治療は難しいが精神分析も一つの方法である。抑うつ的になりやすいので抗うつ剤がよく使われる。

映画の話しあれこれ30 「アバウト・シュミット」
 シュミット(ジャック・ニコルソン)は保険会社ウッドメンの経理を定年でやめる。定年後妻と二人でキャンピング・カーでの旅行を楽しみにしている。しかししばらくは仕事もなくなり何をしていいのか分からなくなったシュミットは会社を訪れたりするがもうそこには居場所はなかったのである。気分転換にチャリティーに応募して月22ドルでアフリカの恵まれない少年ンヅグのスポンサーになる。ある日シュミットはンヅグへの手紙を出しに出かけたあと家に帰ったら妻が突然死んでいたのである。退職に加えて妻も失ったシュミットは悲しみに沈みながら妻の遺品を整理していたら妻が親友と浮気していたことを知る。それが追い打ちになりますます何もする気がなくなったシュミットは家事もできなくなり、服装にも気を回せなくなっていた。しかし一人で自活している娘ジーニー(ホープ・デイヴィス)が結婚することになり急遽結婚式の手伝いをしようと思い立ち娘の住んでいるデンバーへキャンピング・カーで向かうのである。しかし娘の相手はシュミットには気にいらなかった。しかし結婚式の手伝いは娘に断られ仕方なくキャンピング・カーで旅行することにし色々な経験をする。
 旅行中に突然シュミットはすべきことに気付くのである。すなわち結婚を阻止することである。デンバーで娘の相手方の家族に出会い、やはり最低だと思ったが結局は娘の結婚式に祝辞を述べる。
 傷心で家に帰ったシュミットにはアフリカのンヅグから手紙が来ていた。まだ字の書けないンヅグは絵を描いてあった。それは養父と手をつないでいる絵であった。シュミットはその絵をみて孤独な気持ちが急に癒されるのである。シュミットにとっては人生最高の贈り物となったのである。人に手助けしていたようで結局自分が救われるのである。まさに情けは他人のためならずである。ボランティアも言葉通り自分のためにするのであり、このような主体性が多くの人の安定に寄与している。

No.49

日本神話と精神医学-49-「土地争い 」

 アマテラス大神の田である天安田、天平田、天村併田が良田であるのに対して、スサノヲ尊の天織田、天川依田、天鋭田は悪田であり、スサノヲはそれを妬んでアマテラス大神の田に妨害を加える。
 このようにある人が良い物を持ち、別の人が持っていなければ妬みが起こり、持っている者に悪いことをしてしまうこともあるのが人間である。それが神話の中にも述べられているという普遍的感情でもある。他者の田への嫌がらせなど人の感情で重要な嫉妬・妬みなどが田と関係して語られているところに日本人の心において田や土地の重要性が分かってくる。同時に斎服殿に対してもスサノヲは妨害を加えており、土地、食べ物、着物が妬みなどの感情と深く関係していることが分かる。人は自分の基準だけで生きているのではなく、他者との比較もしながら生きており、その比較が優劣の感情を引き起こす。

―人格障害(9)―依存性人格障害

 この患者さんは他人の要求を自分の要求より重視し、自分の責任を他人に預け、自信に欠け、長時間の孤独に激しい不安を感じる。世話をされずに放って置かれる恐怖が非常に強い。この人格障害は女性に多い。
 この障害の患者さんは自己の決断が他人からの過剰な忠告と元気付け、助言、保証があって始めて可能であり、責任ある立場に付けない。支持を失うのを恐れて反対意見も言えない。同じ課題でも自分自身のためにするのには耐えられないが他人のためには耐えられる。
 対人関係は密着し、強固な信念を持った人の信念を取り入れやすい。悲観主義、自信のなさ、受動性、攻撃的感情表現に対する恐怖がある。虐待をしたり、アルコール依存の配偶者に対する密着を失うまいとして耐えたりする。密着感を失えば別の密着関係を必死に求めたりする。
 他の人格障害の依存と違って一人の人との長期の関係が特徴的である。他人に対する操作的特徴も少ない。広場恐怖に見られる顕著な不安・恐怖はあまりない。
 治療はよく成功し、洞察が有効である。治療者の支持が依存を克服させやすくする。依存している愛着・密着対象との関係を充分考慮することにより、行動療法、自己主張訓練、家族療法、集団療法は成功しやすい。抗うつ剤、抗不安剤などの薬物療法も有効である。

映画の話しあれこ31 「スパイ ゾルゲ」

 1941年10月元朝日新聞記者であり、内閣嘱託であった尾崎秀実(本木雅弘)は目黒警察に逮捕される。三日後吉河検事(椎名桔平)は麻布区の住人リヒヤルト、ゾルゲ(イアイン・グレン)を国防保安法、治安維持法違反の容疑で検挙する。ゾルゲは沈黙を続けたが尾崎が自白し、ゾルゲの家にあった英文のメモを突きつけられ「俺は共産主義者でスパイだ」と白状する。
 1931年尾崎は朝日新聞記者として上海にいた。尾崎は知り合いの米国人ジャーナリストであるアグネス・スメドレー(ミア・ユー)によってジョンソンことゾルゲに紹介される。3人は日本の中国での行動が間違っていると考え、中国人の愛国心などに共感しあう。尾崎は日本上層部の情報をゾルゲに伝えて、ゾルゲはその情報をモスクワに送っていた。
 時は過ぎロサンゼルスから帰国していた沖縄人の共産主義者宮城与徳(永沢俊矢)はモスクワからの命令でゾルゲと会い、尾崎にも接触しゾルゲに引き合わせる。久しぶりに再会した共産主義者ゾルゲと反帝国主義者尾崎は信念を共にし、協力しあうことを誓う。
 ゾルゲは東洋の情勢について非常に詳しく知っており、実力ある新聞記者として日本に来ており、ドイツ大使館のオットー大佐に近づきその力添えでロシアのスパイにも拘わらずナチス党に入党できる。ゾルゲの母はロシア人であり、父はドイツ人である。ゾルゲは第一次世界大戦でドイツ兵として参戦し負傷した。ドイツの行動を疑問に思っていたゾルゲはロシア共産主義に身を捧げる決心をしていたのである。
 そのころ日本は失業が深刻さをまし、米国の生糸禁輸と東北地方の冷害が加わり、東北農民の状況は悲惨であり娘達は身売りされていた。ゾルゲは日本の状況や政治家・軍人の動きについて尾崎を通して得た情報をスパイ仲間のヴェケリッチ、クラウゼンの3人で組立に成功した無線通信機で次々とロシアに打電する。日本の情勢については1936年2月26日に若き将校達のクーデターが起こる。
 ゾルゲはオットー大佐の親友になりドイツ大使館からドイツの秘密情報を盗みロシアに打電する。
 日独防共協定の締結もあり、近衛文麿内閣が誕生し尾崎は中国の知識を買われて朝日新聞記者をやめ内閣嘱託になる。ますます日本の国家機密を手に入れやすくなった尾崎はゾルゲに重要情報を手渡す。ロシアはドイツ・日本の情報を得て戦時国際情勢のなか有利に行動する。宣戦布告なしでドイツがソ連に侵攻するという貴重な情報はゾルゲが2重スパイであると疑ったスターリン体制により無視された結果ソ連はドイツの侵攻を許してしまう。ゾルゲ達は信用されなくなったと思ってスパイ組織の解散も考えたが、再度モスクワから連絡が入りスパイ活動を続けるのである。満鉄の極秘情報や日本がロシアに侵攻しないなどの御前会議の情報なども手に入れたゾルゲはロシアに打電し充分な仕事をし終え、母の故郷、恋人のいるロシアに帰る予定だったのが1941年日本警察に捕まった。
 通常スパイは裏切り者的評価をされる。民族の命や利益をとるか国際人としての信念をとるか大局的見地にたつスパイはひとつの生き方である。しかし金のためにするスパイもいる。さらに結局は国際人として大局的見地に立ったつもりでも単に他国の利益になるだけのことも多く歴史的にも評価されにくい。自国を無視して他国を利する行為は自国がいくら腐っていても正しいと言えるか疑問である。それだけのエネルギーを自国改革に費やせばいいと思う。

こころNo.50

日本神話と精神医学-50-
 ヤマトタケルは父景行天皇の命令でクマソタケル、カワカミタケル、イズモタケルなどを討ち取った西征の後、休む暇もなく東征を命じられる。この東征の闘いの最後にノボノで亡くなるのだが自己犠牲の精神を尊ぶかのようにヤマトタケルは死後白鳥となる。また東征への出発前に叔母のヤマトヒメから姫にとって自分以上に大事な草薙の剣を授けられる。ヤマトタケルあるいはその東征という行為は大王家にとって自己犠牲も当然のことであったろう。
 ヤマトタケルが相模から上総に渡ろうとしたとき途中で暴風雨が起こり、船が進まなくなってしまう。そのときヤマトタケルに従っていたオトタチバナヒメが人身御供となり、自ら入水して、暴風を沈めている。
 出雲の足名椎、手名椎の娘クシイナダヒメがヤマタノオロチの人身御供になろうとしているのを知って、スサノヲが自分の危険を顧みず、ヤマタノオロチを退治したのも自己犠牲の一面がある。
 オオクニヌシが闘いを避けて国譲りをしたことも自己犠牲と関連するであろう。このように日本神話には国家的規模から個人的規模までの自己犠牲の話が語られている。当然のことながらそれは肯定的に語られているが、日本人の精神のあり方として縛り付けている一面はないのであろうか?

―人格障害(10)―強迫性人格障害

 強迫とは心に強く迫ってくる観念、行為であり、そういう症状を引き起こす強迫性障害と強迫性人格障害は区別されているが、強迫性障害の心理的側面とは関連している。
 この人格障害の患者さんは男性が多く、体質とも関係している。厳しい規律を持った生活をしていることが多く、分析的にはトイレット・トレーニングの時期である肛門期の障害と関係している。
この患者さんは不自然で、形式ばった、堅い態度を呈する。気分が研ぎ澄まされており、感情は余裕が無く、萎縮している。質問に対する答えは詳細すぎて些細なことまで問題にする。習慣性、規則性、順序、几帳面、詳細、完全性にこだわり、人間の精神の無限性に気付かずに、精神・性格に余裕がなく萎縮している。形式張っていて真剣で、ユーモアの感覚に欠けている。規則に厳密に従うことを主張し、不完全さを認められない。柔軟さを欠き狭量である。
対人関係の技量は限定され、人を阻害し、妥協できない。自分の要求を他人に従わせる。しかし権威主義的で自分よりは強い人には従う。失敗を恐れて決断の必要な時にあれこれ迷って優柔不断な一面がある。
活動の主題が見失われるほど細目、規則、順序、構成、予定表にこだわり、課題の達成が妨げられるぐらい完全主義的になり、娯楽や友人関係を犠牲にしてまで仕事をしたり、道徳、倫理、価値観に誠実で、良心的だが、融通が効かない。意味のないものを捨てることが出来ず、自分のやり方通りでしか仕事をまかせられず、お金にも細かく、将来のために貯蓄するのが一番と考えるなど堅さ、頑固さなどが見られる。
 丹念な込み入った仕事はうまく行く可能性があるが、臨機応変さが無く、仕事がうまく行かないことが多い。うつ病も引き起こしやすい。
 治療は本人が困っており、自由連想法、非指示療法、集団療法、行動療法なども有効である。不適応行動を少しでも少なくしながら、新しい対処法を見つけることが有効である。薬物も効くことが多い。

映画の話しあれこれ32  「英雄」

 紀元前200年頃、戦国時代末期の中国は秦・趙など七国が覇権を求めて争っていた。中国に始めて統一王権を成し遂げた秦王(チェン・タオミン)のちの始皇帝は他の国達の刺客達によって命を狙われていた。秦王は趙国の3大刺客・長空(ドニー・イェン)残剣(トニー・レオン)飛雪(マギー・チャン)によって命を落としそうになって以来、見知らぬものを100歩以内に近づけないようにしていた。
 その3大刺客を殺し、形見の槍、剣を持参した無名(ジェット・リー)は秦王に100歩まで近づき拝謁を許された。無名はもともと孤児でありこう呼ばれていた。秦王はどのように刺客を殺したかを無名に尋ねた。無名は刺客の一人長空と秦の剣士達の立ち会いのもと闘い、人並みはずれた達人的境地、すなわち時間の進むスピード感の違い、空間の細かい把握の違いを感じさせる静と動の闘いを語った。その話を聞いて秦王は無名を自分から20歩の所まで近づけさせた。
 次に秦王は残剣と飛雪の倒し方を尋ねた。飛雪が長空と一夜の過ちを犯し、飛雪と残剣には複雑な感情のわだかまりが残っていた。丁度秦が趙を攻める時に無名が長空の形身の槍を持参し、飛雪の心は揺れる。その姿を見て残剣は自分の侍女如月(チャン・ツィイー)と関係を結ぶ。それを見た飛雪は嫉妬で残剣を殺してしまう。心を乱した飛雪は無名に容易に殺される。この手柄により、無名はさらに10歩秦王に近づけたのである。
 実は無名も刺客であり、人から10歩以内の所では必ず人を倒せる必殺技を持っていた。その殺気を秦王の前に置かれた蝋燭の揺れから感じた秦王は、3大刺客にも会っており、無名の語る人物とは違って、3大刺客達が嫉妬などすることのない大人物であることも知っており、無名の嘘を見破るのである。
 無名は嘘を見破られたにも拘わらず、すぐに秦王を殺さず本当の話を始める。長空は無名の腕を見込んで秦王を暗殺するためならと自分を犠牲にするのである。飛雪も長空が見込んだのならと自分を犠牲にしようとする。しかし残剣は違っていた。残剣は秦王だけが天下統一の出来る大人物であり、中国を平和に出来ると考えて暗殺する気を無くしていた。飛雪が自分を犠牲にしようとしているのを身体をはって阻止し、飛雪の剣を避けることなく死んでしまう。残剣の死を招いた飛雪も自ら命を絶ったのである。
無名も秦王と出会い10歩の所に来て、秦王の人物の非凡なことを悟り、暗殺して中国の戦乱を長引かせるよりは秦王に天下統一を期待して暗殺をやめる。
 この映画は静と動、剣と愛、戦乱と平和の心理的側面などがテーマである。さらに映像の美しさ、剣技の繊細さなどの見せ方も加わって一見するに価値がある。映画の秦王には暗殺をも遠ざける人物の大きさを感じたが、実際の始皇帝がやった行為、焚書・抗儒には少し相容れない気がした。

こころNo.51

日本神話と精神医学-51-  「古代人の病1」

 古代では病気は神仏の祟りと考えられていた。とりわけ大流行する疫病は天皇の失政により天地に異変がおこり流行すると信じられていた。疫病のことは古事記や日本書紀にはえやみ・えのやまいとしてみえる。疫病は一旦流行すると身分に関係なく平等にかかる病であった。古事記には役病とも書かれていて一種の税のようなものという意味であろう。時の気という言い方もあり天候異常との関連を信じていた。天皇の失政が天候異常を生みさらに飢饉・疫病へと関係していくのである。

 崇神天皇の時疫病が流行り、天皇の夢に大物主神が現れオオタタネコをもって自分を祭らせば神の気すなわち祟りはおこらずおさまるだろうという話が日本書紀にのっている。和泉の陶村で大物主神の子供のオオタタネコを見つけだし天神地祇を祀らせると疫病はおさまった。

 世界・自然の現象、人間の精神などなどは分からないことだらけでありつらいことも多く神の祟りという人間理解を越えた領域が常に多くの人の心から離れず、ここにも宗教の成立する理由があるのである。

精神科診療での経験1  ―言葉―

 私がいつも感じている精神科診療での重要なことの1つは言葉である。患者さんの言葉を理解するためには社会的に通用する概念と患者さん個人の体験に基づいた意味を分けて考える必要がある。多くの人とのコミュニケーションの土台には概念があるが、患者さんを一層理解していくためには患者さん個人個人の全く違った体験に基づいた意味を考える必要がある。

 例えば母・お母さんという言葉は誰でもすぐピンとくる概念でありながら実はとても誤解を生み出しやすいのである。一人一人大変違った母親に育てられながら母親という概念に基づいて語られるため、一人一人大変違った意味を持つ母親にも拘わらずお互い分かり切ったかのように会話が進む。

 精神科診療でもよく出てくる色々な言葉、例えばいらいらという言葉も皆さん簡単に理解されるかのように感じているがとても難しい言葉である。いらいらも一人一人大変違った体験であり、怒りと関係した言葉ではあるが、どんな怒りなのか、いらいらの程度はどうなのかなどなど分かろうとしても簡単には分からない。このように患者さんの言葉を知って行くには少しづつ患者さんの話を聞いて、少しづつ患者さんの体験に近づいて行くしかない。

映画の話しあれこれ33  「座頭市」

 ある日金髪頭で仕込みの杖を持った盲目の居合いの達人座頭市(ビートたけし)がとある宿場町に入る。浪人の夫婦連れ服部源之助(浅野忠信)と妻おしの(夏川結衣)も同じ宿場に入る。腕の立つ浪人服部は以前ある藩の師範代をしていたが、ある腕のたつ浪人との試合に破れ師範代の身分を棄て浪人になっていたが病身の妻おしののために用心棒の仕事を求めていた。さらに旅芸人のおきぬ(大家由祐子)とおせい(橘大五郎)の姉妹もその宿場に入る。おきぬの三味線には仕掛けがあり糸がはずれて人の首をしめて殺せるのである。妹のおせいは実はおきぬの弟であった。

 その宿場町はやくざの銀蔵(岸部一徳)一家が仕切っており、金持ちの商人扇屋(石倉三郎)とつるんでいた。市はその宿場町で知り合った新吉(ガダルカナル・タカ)と賭博で荒稼ぎをする。その新吉は市が偶然知り合いお世話になっている野菜売りおうめ(大楠道代)の甥であった。

 服部はその宿場の飲み屋的屋で的屋の親父(柄本明)に金を要求しに来たやくざたちに対して剣の腕を見せつけ、銀蔵の用心棒となる。その店で服部と市も出会いお互いただものでないと気付く。

 市たちの金を狙ったおきぬ、おせい姉妹は市に懲らしめられそうになったが、二人は小さい頃大店の子供であったが、強盗のくちなわ一家に両親を殺され敵を探していることを伝える。おきぬ・おせい二人は銀蔵とつるんでいた扇屋がくちなわ一家の一員と分かって銀蔵・扇屋二人に近づこうとするが逆に銀蔵と扇屋に殺されそうになる
のを市が助ける。

 実はくちなわ一家の親分はあの的屋という飲み屋の親父であった。くちなわ一家は賭場を荒らした市を殺すためおうめの家を訪ねるが市はおきぬ・おせいを助けるために出発した後だったのでおうめの家をもやす。市は銀蔵と扇屋を殺し、服部との居合いの勝負にも勝つ。このあと的屋の親父の仕草からこの親父がくちなわ一家の親分であると想像していた通りであり、くちなわ一家の親分を殺す。さらに的屋の下働きがくちなわ一家の先代であることもわかりこれも殺す。

 この映画は殺陣のすばらしさと農民の作業をリズム感ある踊りにしている部分、最後の宿場町のみんなが喜びをタップで表している部分が市や服部の居合いの間合いなどと呼応して痛快な感じをもたらしている。

 同様に人間関係における間合いや相性についてもリズムが重要な働きをしていることをこの映画は思い出させる。


こころNo.52

日本神話と
  精神医学-52-  「古代人の病2」

 崇神天皇の夢枕にたった大物主大神はオオタタネコをもって自分を祀らせば神の気おこらず国安らぐだろうと告げた。大物主大神は大国主命の別名で、オオクニヌシは兄達すなわち八十神に与えられた試練・苦難に耐え、乗り越える心優しい英雄神であり、八百万の神々のなかでも最もなじみ深い神である。オオクニヌシは少彦名神とともに中津国と人民を治めた。オオクニヌシが出雲の御崎に坐っていると波間に小さいカガイモの船に乗りヒムシで作った衣をきた小神が現れた。博識のこの神はオオクニヌシと力を合わせて国を治めて治療の神、無病息災の守り神として信仰されている。このスクナヒコナは薬の神・神農と重なって考えられていて薬の街道修町の守り神となっている。

精神科診療での経験2  ─ 精神・心・気持ち ─

 心・こころは心臓の心という字で表されている。心臓の働きや症状である動悸などの自律神経系の働きと感情・情緒は密接に結びついているから、心・こころという言葉の意味には感情・情緒と切り離せない面がある。
 頭・あたまは大脳を入れる身体の一部であり、頭という言葉は大脳の働きを示唆することも多い。例えば頭が切れる、頭が良い、頭でっかちなどと使われる。
 現在医学では大脳についての知識がかなり発達してきて、今までは漠然と心や身体の出来事と考えられてきた多くの精神現象が大脳の働きとして説明されるようになってきたため、心・こころという言葉の意味も大脳の働きというように解釈され、頭という言葉の意味に近くなってきている。しかし心がいくら大脳の働きであるといってもその働きがどこで感じられるか、意識されるかというと身体全体であり、胸・心であるのは明白である。
 気持ちの気は身体のなかにある心・こころが外に顕れたものである。気と気があう、気がつく、気になるなどのように身体の周りにオーラのようにあると感じれば分かりやすい。気心を知るとはお互いの雰囲気が良く波長があうだけでなく、心すなわち内面も知るという意味である。気には色、大きさ、強さなどの属性があり、気色が悪いとか、気が大きい、気が強いなどとも言われる。
 最後に精神とは心、気、頭、無意識なども含んだ全体的概念でもある。

映画の話しあれこれ34  「陰陽師2」

 平安時代のある時、日隠れがあってのち貴族が殺され身体の一部が食われるという事件が続いていた。その事件は鬼の仕業と考えられ、ある夜右大臣藤原安麻呂(伊武雅刀)の屋敷で鬼封じの儀式を催した。その儀式に安麻呂のじゃじゃ馬娘日美子(深田恭子)がちん入した。鬼も恐れる男姫といわれる一方そのりりしく美しい姿に安部晴明(野村萬斎)の友人である源博雅(伊藤英明)は一目惚れをしてしまう。日美子は最近夜間夢遊病のようにさまよう姿を目撃されており、怪異な事件も相変わらず続いていたため安麻呂は日美子が関係しているのではないかと恐れていた。そのころ内裏の温明殿に安置されていたアメノムアクモの剣がひとりでに音をたてるということが起こり、晴明が呼ばれ調べたが反応はなかった。そのため藤原家と対立している貴族が下々の間で神と呼ばれている幻角(中井貴一)に解決させようとし、幻角と晴明は出会う。
 再び鬼が出現したが、今回は検非違使の射た矢が鬼の肩を射抜いた。その鬼の正体はいつか博雅が管弦を通して知り合った須佐(市原隼人)であった。須佐は知らず知らず日美子の屋敷に惹かれて日美子に助けられる。日美子を訪れた博雅は偶然須佐がいるのを知って須佐と一緒に須佐の村の古い調べを奏でるが、その音を聴いているうちに日美子はひとりでに涙が落ち、日美子と須佐の上腕に痛みがはしるのである。二人には同じオロチの入れ墨があったのである。
 やがて安麻呂は隠し立て出来ないと思って晴明にすべてを打ち明ける。実は日美子は朝廷の命令で滅ぼした出雲族の生き残りの娘であった。晴明は文献を調べ出雲に伝わる出雲八卦からアメノムラクモに封印されたヤマタノオロチの力を解き放つためには天の岩戸神話にかかわる神々の子孫の生け贄が必要であることが分かる。須佐は鬼となって人を食べることに苦しんでいたが、須佐を操っていたのは日美子の父でもあり須佐の父でもある出雲族再興の怨念を持っていた幻角であった。晴明は日美子を連れて滅びた出雲族の村に行き、日美子の母の亡霊に出い、幻角が日美子を殺しヤマタノオロチを呼び出して、須佐をスサノヲに復活させること目論んでいることを知らされる。対して日美子に内在するアマテラスの力で災いを避けようとした晴明は逆に幻角によって結界に閉じこめられてしまう。
 幻角が日美子を殺したあと、ヤマタノオロチが解き放たれ、須佐からスサノヲが蘇り、都は大災害を被る。しかし晴明と博雅はあきらめず命を賭けて、天上の神々の世界でもある天の岩戸に遡り、アマテラスを蘇らせるべく奮闘し蘇らせに成功しスサノヲの力を再度封印したのである。
 陰陽師は一種の道教の師である。日本神話も道教の日本版と考えられなくもない。天皇という言葉自体が道教の神から来ており、八百万の神々という多神教の世界自身がまさに道教世界とも言え、神道と言われるのも当然である。その日本神話の天の岩戸の話を鍵として朝廷と出雲族の闘いを描いているのは、日本神話における朝廷の守護神アマテラスと根の国出雲のスサノヲとの緊張関係を示唆していておもしろい。いつの時代も人智を越えた象があり、そのため宗教が必要である。それが平安時代には陰陽師などがひろめた道教であろう。

こころNo.53
日本神話と精神医学-53-  「国ほめ」

 天皇は高い所に登り国土を望み(国見)、その国土が豊かであると褒め称えることが出来れば国土が安泰であると考えられた。国土や大地を誉めて喜ばせることでその言葉の力(言霊性)により豊かさを産出すると考えられていた。イザナキとイザナミが最初に国土を産み出した時に「あなにやしえをとこを」「あなにやしえをとめを」とお互いにほめあってすばらしい国土を産み出した。このように褒めることはすばらしい豊かなものを産み出すのである。
 精神科の患者さんは結果としてあまり生産的でないと批判されることが多いようだが、患者さんの話を聞けば過去の苦しい体験を持っているが故に健常者のように生き生きと働くことが難しい一面をもっている。逆にそんな苦しみをもっているにも拘わらず自分を生き生きさせている人も結構多い。まさに逆境にも拘わらず自分を生かし
色々産み出している事に気付けばそれを褒めることにより患者さんは一層元気がでて生き生きすると考えられる。
 精神的苦しさを持っているにも拘わらず、自分を維持している人も多く、まさに褒めるに値するひとも多い。褒められることにより自信を回復すればますますすばらしい生き方を産み出すであろう。

精神科診療での経験3  ─ 精神と身体 ─

 精神は身体に宿る。健康な精神は健康な身体に宿る。つまり健康な精神は身体が自然な状態にあって始めて安定する。身体には足があり自立して歩くのが自然である。
 精神も自立し目的に向かって進んでいる状態が一番安定している。身体に目があるということは精神の健康には周りを見渡し目的をもつことが必要ということである。目的がありそれに向かってすすんでいる精神は非常に健康的といえる。ある人の目的が周りの人々にも同様に見ることが出来そんな目的に向かって進むことが周りに頷かれ、周りに理解出来ない目的は非難にさらされ、進むのも難しくなる。手があるということは目的に向かう道には障害物があり、それを処理しながら進む必要があるということである。このように障害を処理しながら目的に向かって進むということは自然であり、精神にとっても非常に健康的といえるであろう。歩んでいく道・大地はその
人の背景・条件を、その人を支える人間関係を意味しており、関係が良好ならその人の歩みを一層生き生きさせるであろう。
 このようにその人の育ってきた環境や家族関係がその人の精神の土台となり、その大地・道を踏みしめ自立し自主的に目的に向かって進んでいく生き方が生き生きした生き方である。大地すなわち家族関係・人間関係が不安定であるとしっかり歩めない。また目的に向かって飛びついたり、あわてて走りすぎたりすると空回りが生じて生き生きとした確かな生き方でなくなるであろう。

映画の話しあれこれ35  「福耳」

 里中タカシ(宮藤官九郎)は29歳のフリーターである。一時入院していた病院の看護師信長珪(高野志穂)に一目惚れして、現在彼女が勤めている高齢者向けマンション・パティオのレストランで働くことになった。勤め始めるやまもなく彼は前日に亡くなった藤原富士郎(田中邦衛)にとりつかれる。というのはタカシの耳たぶが長く
ほくろがあり福耳と考えられたので藤原が自分が生前に果たせなかった夢をはたせると感じたからである。藤原は同じパティオの住人元ダンサーの神崎千鳥(司葉子)を愛しており、千鳥を狙っている元活動弁士の緑川(坂上次郎)や元うなぎ屋の小林(谷啓)から千鳥を守りたかったからである。最初タカシは恐怖と驚きの連続であっ
たが、珪との仲をとりもつという藤原の提案でタカシの体を借りた藤原が千鳥とデートするのに協力することになる。
 藤原は元企業家で最新の知識、文学の知識などの教養豊かな人物であり、タカシがそんな知識を持っていると珪に思わせることにより、最初は鼻にもかけなかったタカシを珪は見直すようになった。一方千鳥も年の差にも拘わらず藤原の面影をもつタカシを気に入るようになった。デートを重ねるうち千鳥に思いを寄せていた緑川や小林
は千鳥をあきらめざるを得なくなる。千鳥と付き合ううちに藤原が乗り移ったタカシは仮病を使ってついに千鳥をホテルにさそうことに成功する。藤原の思いを遂げさせるのに協力してきたタカシだが千鳥はもう少しのところでタカシの愛を拒み、本当はタカシではなく藤原の面影のあるタカシを好きだったと述べて深い関係にならずに別
れるのである。タカシに乗り移っていた藤原もこの言葉を聞いて精神的に非常に満足する。そして藤原自身も本当は千鳥のためだけにタカシに取り付いたのではないといって消えてしまう。
 タカシと愛しあうようになった珪は二人にとって忘れられない藤原の遺品を届けに藤原の故郷北海道に二人でやって来た。そこで二人は藤原がタカシと同じくらいのよく似た息子を亡くしていたことを知る。仕事に忙しく充分なことをしてあげられなかった息子に代わって、藤原は息子によく似たタカシに企業家としての力を付けさせたかっ
たのである。藤原自身も息子を亡くした後事業にやるきをなくし失敗していたのである。そのことを知ったタカシははじめは自信のなかった藤原発案の企業活動をする決心をし成功するのである。
 現在フリーターの人が多くなり正社員になりたくてもなれない閉塞社会にとって、この映画は企業家の精神を持てばフリーターの人も成功することを伝えているが、なかなか映画のような幸運はやってこないだろう。フリーターの人よりももっと社会的閉塞状況を表している閉じこもりの若者を産み出しているこの社会は、本当にやむを
得ないものなのか? 映画のなかで藤原が言っていた生きることには見えないものを信じる勇気が必要であるという言葉はなかなか力強い言葉である。閉塞状況にある若者たちを勇気づける言葉でもあろう。


こころNo.54

日本神話と精神医学-54- 「禊の仕方」

 黄泉の国から逃げ帰ったイザナキは水に浸かって穢れを洗い除くために日向の橘の小戸の阿波岐原に行く。大祓いの祝詞には国中の罪・穢れが川から海、海から地下の根の国・黄泉の国へ流されていく様子を以下のように述べる。
 「雲を吹き放つように、霧を風が吹き払うように、船の綱を切って大海原に押し放つように、木の根元を鎌で打ち払うように、罪・穢れを速川の瀬にいるセオリツヒメが持って出て、海の激流の交わる所にいるハヤアキツヒメがその罪・穢れを飲み込む。次に生命の息吹の出入り口にいるイブキドヌシがそれを根の国に吹き放つ。こうして
根の国にいるハヤサスラヒメが持ち去って捨てる。」
 又、イザナキのみそぎ(身をそぐ)の時にツキタツフナト、ミチノナカチハなど世界の秩序化の神々が生み出される。すなわち破滅を免れてそれを再構築して世界が秩序化されるという神話はまさに破壊が創造の始まりという常套句を思い出させる。

 
精神科診療での経験4  ─ 精神と身体 2 ─

精神と身体は不可分に結びついており、心身一如とも言われる。精神状態を表現する言葉自身もその精神状態にある時の身体状態・表現を使うことが多い。すなわち精神は目に見えない故に精神を表すために目に見える身体や自然現象を使うわけである。
 頭が痛い(頭痛)、むかつくことやむかつく奴(嘔吐)、目を回す程忙しい(めまい)、素直で言うことを聞きすぎて消化不良になる(消化不良や下痢)などと使われる。
 逆に精神状態からどんな身体状態が起こりやすいかもわかる。不安とは対象のはっきりしないものであり、わけのわからなさでもある。孤独感や閉塞感でもある。従ってある意味で宇宙空間に漂っているようなものである。空気がなく、冷たく、暗い。従って不安の時には冷感があり、息苦しく、動機が起こり、地に足が着かない感覚が
起こるのは当然である。怒りは体に力が入り、緊張し、手などが振るえ体全体の血流が増えて顔が赤くなり、体に熱を持ったり、動悸したりする。恐怖は体から力が抜け、腰を抜かしたり、顔が青くなったり、身体全体が振るえたり、動悸もする。頼る人もなく、自信もなくなると、身体から力が抜け、地に足が着かなくなったり、体が揺れ
るようになる。
 このような感情だけが身体に表れるのでなく、性格も体に表れる。例えば高慢な人は人を目の下に見るために体が反り返るし、臆病な人は上目遣いになる。一方的に自分のことだけを主張し、人を受け付けなく、周りを信用しないと口が人という栄養を受け付けなくなり口がゆがんだりする。
 人間の感情や性格は意識されている一面と意識されない無意識的側面があり、そのような無意識的な精神状態が出現すると無意識も身体の中にあるために、自分では原因がはっきり分からない身体症状が起こる。例えば嘔吐が、頭痛が、振るえが、動悸がなど色々な症状が起こる。このように身体の病気ではなく、本人の性格と人間関係を含む現在の諸状況による意識的・無意識的なストレス・葛藤・欲求不満などが身体
症状を引き起こすことも多い。

映画の話しあれこれ36  「ラスト・サムライ」

 明治維新の頃、天皇のために忠誠を尽くして新時代を創ろうとしたサムライ勝元(渡辺謙)は西洋流の世界を創ろうとした大村(原田真人)と対立していた。
 天皇は勝元を信頼し評価していたが、西洋流の世界を創らざるを得ないと考え、大村の意見に従いサムライを無くそうとした。大村は政府内の反発分子である勝元とその一族との争いを見越して、当時アメリカのインディアン征討に功績を持っていたにも拘わらず、彼の上司のバグリー大佐(トニー・ゴールドウィン)や世の中の功利主
義・実用主義に嫌悪を抱いていたネイサン・オールグレン(トム・クルーズ)大尉に高給を払って、明治政府の軍隊の訓練を頼む。オールグレンはアメリカ白人政府に対立するインディアン部族に対し皆殺しなどの非情な闘いをしてきたことに苦悩を感じておりアルコール浸りの生活であった。日本での軍事訓練が充分に出来ていないにも
拘わらず、その未熟な軍隊で対立する勝元を征討しようとした大村はオールグレンやその部下に闘いを命じたので、オールグレンは闘わざるを得なかったが、やはり作りたての軍隊は未熟で勝元率いるサムライ集団に敗北し、オールグレン大尉は殺されそうになる寸前まで全力で闘い、副将らしきサムライを殺す。その闘い振りに感心したのかインスピレーションを感じた勝元はオーグレンを捕虜にする。傷ついたオールグレンは自分が殺した武将の妻で勝元の妹のたか(小雪)の親切な世話により日に日に元気になり、アルコール依存も治る。オールグレンに興味を持った勝元の意思により、オールグレンは勝元一族の生活を目の当たりにしてサムライの精神・武士道に触れる。ネイサン・オールグレンはたかにだんだんと愛を感じはじめるが、たかは夫を殺されたにも拘わらず、兄勝元の命令のため複雑な気持ちで世話をしつづけるが、たかも少しずつオールグレンに引かれるのである。オールグレンは勝元の高級武将氏尾(真田広之)にきびしく刀の腕を磨かれ、やがて氏尾と相打ちする程になる。オールグレンは刀での闘いに霊を感じるほどになっていたのである。
 やがて天皇の命令で御前会議に出るようになった勝元は廃刀令、断髪令などに従わないため、大村は天皇の意向に従わず、逆らうものとして勝元を捕らえる。オールグレンはこの頃には勝元などのサムライ精神に共感するようになっており、当時のサムライを記録したいと思っていたサイモン・グレアムと一緒に勝元を救い出そうとする。
同時に勝元の部下達も勝元を救いにきており、勝元は逃れることが出来た。しかしこの時勝元の子供信忠(小山田シン)は殺された。
 勝元、オールグレン、氏尾達はとうとう大村が率いてバグラー大佐が指揮する政府軍と最後の決戦をする。大軍でもある政府軍は大砲に加えて、一分間に数百発も打てるキャドリング・ガンをアメリカから購入し、勝元一族は勝てるわけがなかった。しかし勝元はオールグレンの全滅覚悟で最大限の力を発揮しようという言葉に勇気付け
られて気を強くし相当な善戦をする。最後まで生き残ったオールグレンは大村に助けられ、天皇に勝元の最期のときの精神すなわち武士道精神、サムライ・スピリットを伝え、勝元の刀を手渡す。
 この映画はアメリカ人による武士道の見方を示しているが、かなり日本人にも共感できる内容になっていると思う。ここで描かれたサムライ・スピリットは儒教精神ともかなり関係している。しかし言ったことは必ず事実にする、なるという精神は日本古代の言霊思想にも通ずる。現実の日本のサムライ達は源平藤橘、将軍、一族郎党、一所懸命、悪党、下克上などこの映画の描くサムライ精神と大変違った部分を持っているが、一方サムライ・スピリットの純粋な一面がこの映画で描かれている。

こころNo.55
日本神話と精神医学-55-  「太母」

 日本神話においてユング派の精神分析が語る太母と考えられる神々はイザナミ、アマテラス、オオゲツヒメ、ウケモチなどであろう。光・太陽でありすべてを包むアマテラス、自らを犠牲にして産み出す神としてのオオゲツヒメやウケモチ、種々の神々を産み出し、すべての死んでしまったものを飲み込むイザナミなどまさに女性神が自
分を犠牲にして大地からさまざまな種類の農作物を発生させ、人々に与えてくれ、最後に行き着く所としてのあり方は日本人の母親像の元型と言えるだろう。
 乳幼児にとって、母親に抱かれ充分に食べることができる状態は安心そのものであろう。このような根元的甘え・依存が女神達の特徴からみて日本人の心の基にある。依存や甘えと関連して、自分が何も伝えなくても分かってくれるという、相手が自分の気持ちをくんでくれるという他人任せの無責任な性格傾向の一つがこのことにもとづいているだろう。一方相手の気持ちをくみ、相手にあわせるという、うつ病がおこ
りやすい執着性格も日本人の特徴といえるであろう。

映画の話しあれこれ37 「半落ち」

 元捜査一課の敏腕警部梶(寺尾聡)はアルツハイマー病の妻(原田美枝子)を殺したといって県警に自首してくる。13歳で白血病でなくなった息子のことを覚えているうちに殺してほしいと妻に頼まれた梶は警察官であるにもかかわらず嘱託殺人を犯したのである。警察も始めは警察官の引き起こした事件にも拘わらず嘱託殺人という
簡単な事件として片づけようとした。しかしこの事件を担当した志木刑事(柴田恭兵)は調べるうちに梶が妻を殺して二日後に自首してきたことがわかり、この空白の二日間に梶は何をしていたかが問題になった。梶はこの二日間については多くを語らなかったため(半落ち)もし単なる嘱託殺人でなかったら県警の威信に関わる問題なのである。調べるうちに梶は妻を殺したあと東京の歌舞伎町に行ったことが分かり、マスコミにももれて県警は騒然となる。左遷されている担当検事佐瀬(伊原剛志)は警察と地検との取引でこの事件に深入り出来なくなっていく。この事件の情報すなわち梶が妻を殺した後歌舞伎町に行ったことを県警は隠そうとしているというスクープ性を感
じた記者洋子(鶴田真由)は事件を調べるうち梶の息子がドナー登録をしており、息子が死んだ後梶の妻は新聞で息子の臓器移植がなされた相手が東京歌舞伎町のラーメン店で働いていたことを知り、そこに息子が生きていた証を見いだしていたことがわかる。しかし梶の妻は東京にその青年を見に行ったが、アルツハイマー病が進行していて探すことも出来なくなっていた。そういう状況で息子を覚えているうちに死にたいという妻の切なる願いを梶は痛烈に感じるのである。裁判でもドナーのことは言わないという決意から黙秘を通した梶は記者からその情報を得て人権派弁護士で自分を売り込もうとしていたいそ弁植村(国村隼)に弁護されるがやはりそのことは最後まで認めなかった。刑事の志木も検事の佐瀬も梶の心理を理解しこの裁判で梶が情状酌量されると思っていたが、半落ちの梶に対して新米判事藤林(吉岡秀隆)はいくらアルツハイマー病で苦しみ死にたいと言っても妻を殺すべきではなかったという信念で実刑判決を下すのである。実は藤林も父がアルツハイマー型痴呆でありその父親の面倒をみているのであった。
 この映画は嘱託殺人さらに痴呆という社会問題、真実に対する警察・検察・司法の態度、それぞれ個人の欲望、信念などをそれぞれの人の内面に深く入り込んで描いている。心理描写としてはかなり迫力のある映画であろう。初老期に罹るアルツハイマー病は家族にとってはとても悲しい出来事を引き起こしやすいだろう。この映画のテーマについてはそれぞれの問題について多面的、多角的に掘り起こし、各自それぞれ判
断するしかない問題であろう。


精神科診療での経験5  ─ 人間関係1 ─

 人という字は支えあっている形であり、間は人と人の間であり、関も係もかかわりを表し人間関係という言葉は人にとって、人の精神にとって極めて重要な言葉である。
 精神科に受診に来られる人は親子・兄弟・友人・同僚・上司などの人間関係のストレスで悩んでいることも多く、その解決は精神科医との係わりも含めた人間関係のなかでなされることも多い。
 人は一人一人全く異なった身体と全く異なった家族を持ち、全く異なった地域で生まれ育ち、全く異なった経験・体験を積み重ね、全く異なった性格を持っている。「同じ人間」という言葉は人間同志を比較する時に使う非常に表面的な言い方であり(外延)、結局は全く違う要素・内面(内包)を知るための言い方といえる。
 全く異なった個性ある人間は分かることしか分からない、感じることしか感じない、知っていることしか知らない、見えることしか見えない閉ざされた一面があり宇宙空間に漂っているようなものである。
 従って本当は闇に包まれ(孤独で何もわからなくなったり、意識がなくなるような感覚)、冷たく、空気のない(呼吸困難・動悸)原不安状態にあるといえる。この閉ざされたアトム(原子)のような人間は疲れることの多い活動をし、ストレスの多い人間関係を持ち、この人間関係のなかでのみどうにか原不安を感じないで生きていく
ことができているのである。

こころNo.56

日本神話と精神医学-56-  「脱皮」

 因幡の素兎の話で兎が鰐に皮を剥がれてくるしんでいたが、このウサギをオオナムチが助けたことは脱皮や再生を暗示している。オオナムチは兄たちの八十神に何度も殺されそのたびに再生する。山の麓で自分達が追い落とす赤猪を必ず捕まえるように八十神がオオナムチに命令し、火で真っ赤に焼いた大石を転がし落とし、それを猪と思って受け止めたオオナムチは大火傷して死んでしまう。しかし母のサシクニワカに頼まれた高天原のカムムスヒがキサカヒ・ウムカヒの貝の2女神を遣わして、オオナムチの失われた皮膚を再生させる。
 さらに生き返ったオオナムチを八十神は山中に連れ出し大きな木の幹に楔を打ち込み、オオナムチを入らせ楔をはずしオオナムチを木の幹のなかで押しつぶし殺してしまう。今度も母のサシクニワカが皮膚を象徴している木を裂いてオオナムチを取り出し生き返らせる。この後母の子宮への出入り口を象徴している木の国にある木の股を
くぐり抜け地下の根の国に行く。オオムナチは根の国でナカツクニの王に変身する。
 このように脱皮は蛇や昆虫が成虫になるときの現象だが、日本神話でもより一層の成長をするのに試練と結びついた脱皮のモチーフが使われる。精神が成長するためにも今までの自分と違う自分になるために脱皮すなわち今までの自分の形を少し変えなければ成長しないということであろう。

映画の話しあれこれ38  「シービスケット」

 19世紀初頭、アメリカは自動車が発明され、景気が非常によくハワード(ジェフ・ブリッジス)は西海岸の自動車ディーラーとして自動車王と言われるほど成功を収めていた。しかしある時自分の子供を自動車事故でなくし、失意のどん底に陥り、妻とも離婚し落ち込んでいたので、友人に誘われメキシコに遊びに来ていたが全く気は晴
れなかった。そんな時自分の気持ちを紛らわしてくれる女性マーセラ(エリザベス・バンクス)に出会い、やがて結婚する。一方孤高のカウボーイのトム・スミス(クリス・クーパー)は折からの自動車の発展で馬の需要が減り、各地を転々としながら馬の調教で食い扶持を稼いでいた。ある時ちょとしたケガで殺されそうになっていた馬
を助け、その馬の治療を続けていたスミスにハワードが出会う。まもなくスミスがニューヨークのサラトガ競馬場で名馬の子供だが気が荒くて誰の調教も受け付けなかったシービスケットに出会い、スミスの薦めでハワードはシービスケットを購入した。
 大恐慌がおこるまでは裕福な生活をしていたアイルランド移民一家のジョニー・ポラードは文学や乗馬に興味を持ちながら豊かに育っていたが、1929年の大恐慌のため一家は離散し、ジョニー・ポラードは騎手としての才能を感じていた父により、草競馬の世界に預けられ家族と別れ格闘技にも近い草競馬の騎手になっていた。赤毛
のポラードは仲間からレッドと呼ばれ、騎手として身をたてて行くが、生活費を稼ぐためボクシングなどにも出て、騎手としては致命的な右目の傷を負ってしまっていた。しかし気が荒い騎手として生きてるうちにスミスに見込まれ、シービスケットと出会い、この馬に乗りこなすうちにシービスケットが怠け者であるが類い希な力を持って
いることに気づく。
 こうしてシービスケットは変身し連戦連勝するうちに、大不況後逆境に苦しんでいる人々がこの馬の活躍に自分の境遇を重ね合わせとんでもない人気を得るようになる。意気あがるハワードはサンタアニタ競馬場のオーナーを口どき落とし10万ドルレースを仕掛けたが最後に差し込んできた馬に写真判定にもつれ込みながらも破れてしま
うのである。実はレッドは右目を失明しておりこの馬の存在に気づかなかったのである。裏切られたと思ったスミスは逆上したが、ハワードはちょっとしたケガで命あるものを殺すことはないといって慰める。名誉挽回をねらっていたハワードは東部の三冠馬として名誉があったウオーアドミラルとのマッチレースを提案したが、簡単には
応じない大富豪リドル氏を説得するため、全米横断ツアーをし、マスコミを見方につけ、やっとの事でリドル氏の条件を全部飲んでマッチレースが実現した。こんな時運悪くレッドが友人に騎乗を頼まれ、その馬が暴れてレッドは落馬して大けがを負ってしまう。ハワードはレッド以外この馬に騎乗させないと思ってレースを辞退しようとするが、レッドの友人ウルフに騎乗を頼み、レッドは事細かにシービスケットの特徴をウルフに伝えて、マッチレースでウオーアドミラルに4馬身の差をつけて勝利するのである。
 しかしシービスケットはその後のレースで足の靱帯を切断し、もう馬には騎乗出来ないと言われていたレッドとともにリハビリに専念し、起死回生をねらう。やがてレッドとシービスケットはサンタアニタ競馬場で復帰後初勝利を上げ引退する。
 目の出なかったこの名馬シービスケットにそれぞれ過去に傷をもつ3人ハワード・スミス・レッドが出会い、記録を塗り替えていくなか、大恐慌で打ちのめされていた人々が自分の境遇を重ね合わせ希望をこの馬にたくし、人気が沸騰したのはよく分かる。人は自分の気持ちを外界に投影し同一化し、再びやり直す勇気をもてるのである。
従ってこの馬の存在はどんなに多くの人を救ったことであろう。

精神科診療での経験6   ─ 人間関係2 ─ 
 一人一人全く違った個性ある人間が人間関係のなかで人との違いを感じて、人との違いで傷をつけられて、自分の思い・願いと異なることをさせられたり、せざるをえなくなったり、人間関係はまさに自分の精神・心をひずませる。これがまさに人間関係によるひずみ・ストレスであり苦しみ、痛み、傷はおこって当たり前である。もち
ろん一人一人ストレスの質・量は違ってはいる。しかし人間関係にストレスが多いからといって人間関係を避けてしまうと人から遠ざかってますます人が分からなくなり、ますます人との違いが大きくなる。人との違いが大きくなれば人間関係のストレスが一層大きくなり人間関係がさらに困難になる。人が分からなければ人が怖くなり、人
に不安や不信・恐怖を感じるようになり、人間関係が一層困難になる。人間関係が少なくなれば人に対する私という言葉さらには私自身の発展・進化がなくなり、私自身の意味も過去の人間関係のみによって決められた小さいままであり、弱くなり、私という言葉、ひいては私自身がなくなってしまう可能性もある。
 このように人間関係の少ない世界は人や社会から遠ざかった独自で周りに理解できない精神世界が当然出現してくるし、私によってコントロールされない精神世界も出現してくる。このような世界は周りに支えられない非常に不安定な世界でもある。

こころNo.57

日本神話と精神医学-57-  「弟」

 日本神話で活躍する3貴子の一人スサノヲも出雲のオオクニヌシも英雄ヤマトタケルも山幸彦(ホオリのミコト)もカムヤマトイワレヒコ・神武天皇もみな末弟である。世界各地の神話にも弟が権力を握る話が多い。日本の王権も長子相続以前は末子相続であった。権力者の立場から考えれば、早く生まれたものはいくら息子といえども自
分の権力を脅かしやすいと感じられる。一方末子は権力者もやや衰えてきており、さらに若い妻に産ませた子であることも多いだろう。従って末子が権力を引き継ぎやすいのかもしれない。さらに権力を継ぐ色々な方法を学びやすいのかもしれない。例えばオオクニヌシは兄八十神達に虐めぬかれるが再生する。山幸彦・ホオリノミコトも
海幸彦・ホデリノミコトをうまくやっつける。
 妻が初産の場合昔は難産も多かった可能性があり、兄に力のない場合も多く、優れた弟が出てくる可能性も高い。スサノヲの場合は兄月読みの命はあまり目立っていない。ヤマトタケル・オウスノミコトは兄オオウスノミコトをひねり殺している。
 また、兄たちは権力を維持するために戦って死んでしまうことも多く、弟によってその血筋を守られる確率も高いのかもしれない。例えばカムヤマトイワレヒコは兄イツセの命が戦死したため権力を引き継いでいる。こう考えると長子相続にも無理があり、兄弟・家族の心理的構造に何か無理が生じているかもしれない。

映画の話しあれこれ39  「ゴシカ」

 女性精神科医のミランダ・グレイ博士(ハル・ベリー)は上司であり、愛する夫ダグラス(チャールズ・S・ダットン)の指導の下、女子刑務所精神科病棟で悪魔に犯されたという女囚クロエ(ペネロペ・クルス)の治療をしている。ある雨の晩、ミランダが仕事を終えて車で帰るときにいつもの道が通れなかったので回り道をした。途中道に立ち尽くす少女を急に見つけ、急ブレーキをかけたため車が道からそれてしまう。車から降りて少女に近づいた時、少女が燃え上がりその少女の炎で燃えた手がミランダに襲いかかり、気を失う。気がついたときにはミランダは女子刑務所精神病棟に囚人として入っていた。何がなんだかさっぱり分からなかったが同僚のピート(ロバート・ダウニー・Jr)からミランダ本人が夫ダグラスを殺したと伝えられ、夫の親友で保安官のボブ(ジョン・キャロル・リンチ)にも責められた。そのためミランダは半狂乱になり、彼女の腕には不思議なことに not alone(一人じゃない)という言葉がナイフで刻まれたりして個室に閉じ込められた。夜間、亡霊であるその少女が再びミランダの前に現われミランダに激痛を与えるが、監視員にはその少女が見えずミランダの自殺企図に見えたので、自殺をされてはいけないと思って個室に行ってドアを開いたためミランダはその刑務所精神科病棟からどうにか逃げることが出来た。自宅に戻って思い出したのはやはりミランダがその少女に乗り移られて夫ダグラスを殺していたことだった。しかしその少女はいったい誰なのか、ミランダがみた少女は自殺したと思われていた上司の娘であった。調べるうちに別の住所にあった夫の物置を調べてみたらその少女達を監禁し、犯し、殺したことを示す数々の証拠
品があった。少女の事件はこれで解決するかと思われたが、ミランダは not alone(一人じゃない)の意味が突然わかり、保安官ボブに相談したところ、実はもう一人の犯人は保安官ボブであった。ピートも保安官ボブが犯人だと気付き駆け付けてミランダは一命を取り留める。
 最後に女囚クロエの話も実は犯人に犯された本当の出来事であったにもかかわらず、悪魔としか表現できなかったのである。ミランダはクロエの話は病的症状という前提で解釈し思い込んでいたという自分の思い込みを深く反省させられる。
 人間の亡霊は残された者に残っているその人の悔しい残念な思い出・記憶と関連して成仏できていない、悔いが残っている場合に多くの人が感じるのであろうか?
 この映画は精神科医ミランダと同じように患者さんの言葉を十分吟味せず、中途半端な解釈をする精神科医、臨床心理士、カウンセラーに対する警告もあろう。

精神科診療での経験7   ─ 人間関係3 ─ 

 人間関係には近い、遠いなどの距離がある。親しい近い人。遠い親戚より、近くの他人などと言われる。親近感があるかないかで、近づきやすい人とか近づきにくいとか言われる。見ず知らずの全くの他人の場合、旅の恥はかき捨てというように人を気にしないですむことも多い。家族や親戚の場合は血は水よりも濃しといわれて、生の
本来の自分を出しやすい。身内とかいて、まさに家族は自分の体の一部とも感じられる。家族を傷つけることは自分を傷つけることであったりする。
 ところでとなり近所とかちょっとした知り合いの場合の付き合い方は非常に難しい。言葉遣いはどうするのか、相手と出会ったときに挨拶はするのか、挨拶する場合どの位置からするのかなどやはり考えてしまう。知り合いに秘密を知られたりすると恥ずかしく感じやすい。
 人間関係には高低、えらい・だめなどの高さがある。えらい人をみるときにあまりにも高く見る場合、だめな人を引く低く見すぎてしまう可能性がある。人間関係の高低や落差が非常に大きく感じる場合、優越感や劣等感も強くなりすぎる。自分を駄目だと思い過ぎると立ち直りにくくなる。ある人があまりにえらいと人は近づきにくく
なる。
 人間関係には強弱がある。深浅もある。一人一人全く違った個性ある関係である。強く深い結びつきは離れがたくなるし、もし引き裂かれた場合は大変な傷が残る。浅く弱い関係はストレスは少ないが、簡単に切れて得られるものも少ない。付き合いが多くなれば浅くなるし、深い付き合いのできる人は限られる。

こころNo.58

日本神話と精神医学-58-  「大小関係」

 オオナムチとスクナヒコナは二人で力を合わせて葦原の中つ国を創った。オオナムチは大きくて地をはう有害な蛇を象徴としており、スクナヒコナは小さくて空を飛ぶ蛾を象徴としている。さらにオオナムチ・大物主は疫病を流行させたりする一方、スクナヒコナは病気の治療を行うなど正反対の特徴をいくつか持っている。国造りがこのように大小二つの働きによって、完成されるというのはよく理解できる。全体と部分や集合と要素、マクロとミクロなどという対立と関係しているであろう。何かを行うということは骨格や大筋を造り、それだけでは完成出来ていない細かい部分を一つ一つ丁寧に肉付けして完成するというのは当然のことであろう。普通のひとは大体おおまかに出来れば満足してしまうが、人が社会で本当に力を発揮出来るのはほぼ出来ているがまだ未完成の事業に対して細かな出来事を積み重ねて始めて完成し有用有効となるからである。精神の安定・創造にもまさにオオナムチとスクナヒコナは必要で重要である。

映画の話しあれこれ40  「ヘブン アンド アース」

 紀元7世紀頃、唐王朝は領土を拡大し続けていた。当然周辺民族特にトルコ系北方遊牧民族突厥は唐王朝にとって脅威であった。突厥に備える西域最前線の町・突厥関にやってきた剣士来栖旅人(中井貴一)は13歳のときに遣唐使として渡って来た日本人で唐の武術を学び、政治犯や反逆者を討伐する皇帝の刺客となっていた。彼は25年ぶりに日本に帰る許可が下りたがその前に突厥の女性や子供も殺せという命令に背き、皇帝の逆賊になっていた元軍人李(姜文)の殺害を命令された。李とその部下達はしばらくシルクロードを往復する隊商の護衛を請け負いながら逃亡生活を続けていたが李は部下達に家族を持つようにといって別れていたのである。
 この度インドの仏教聖地から唐の皇帝への10万冊の仏教経典と宝物を運ぶ大キャラバンが唐の騎馬軍団に守られて出発したが巨大な砂嵐によりほとんど全滅し、ラクダと荷物と僧侶覚慧(周韵)と一人の護衛兵だけが生き残った。偶然李も被害を受け死にそうになっていたが僧侶覚慧と護衛兵に助けられ、長安への護衛をかってでたのである。李はオアシスの村西葛海にて老不死(王徳順)とかれの弟子の少年とを護衛としてやとった。しかし元部下達は家族を持っていたので雇わなかった。一方来栖は長安まで司令官の娘文殊(趙薇)を連れて行くことも頼まれていた。途中この村で李と出会い激しい死闘を繰り広げたが引き分けに終わり、李が運んでいるのは皇帝への重要な献上品であり、長安についてから再度決闘するということで一応話しが付いた。次に李はシルクロードの町大馬営にやってきて護衛を探すが、その町は盗賊団の首領安(王学圻)に支配されており、安は突厥軍と結託して皇帝への献上品を強奪しようと目論んだ。李は安の軍団に襲われたが李の部下達に窮地を救われ、部下達を結局護衛にせざるを得なかった。実は皇帝への献上品は経典だけでなく、覚慧が守っていたのは仏舎利であった。その仏舎利は西域36カ国を支配できる力を持っており突厥はそれを狙っていたのである。荷物の中身を知った李は安と突厥が攻撃してくることを確信し、李達は安率いる盗賊団の攻撃を受け、部下が一人一人なくなり、来栖も李と長安で闘うためには安と闘わずには得なかった。来栖と李には友情と尊敬が芽生え始めていた。また来栖が連れて来た文殊と李はお互いひきつけあうようになっていた。やがて一行は砦の小弧城に到着するがそこは荒れ果てており李、来栖、部下達は安や突厥軍との最後の戦いをすることになる。かくして来栖もやられ残ったのは李と文殊だけになってしまった。最後に突厥の首領が舎利を手に入れようとしたとき不思議な力が起こり、突厥軍は弱まり、李は突厥軍を破ることが出来た。李と文殊だけが生き残り、李は唐王朝への貢献により皇帝に許され文殊と幸せになるのであった。
 中国7世紀の唐時代、仏教の影響下でシルクロードの各民族、各個人がどんな生き方をしたのか、一つ一つの信念ある生き方にそれぞれ大きな意味があり、愛や友情、信頼が仏教によって支えられていることが伝わってくる映画だった。

精神科診療での経験8     ─ 自我1 ─

 自分、自己、自我などの言葉は精神科臨床において非常に重要である。自分という言葉は他者に対しての存在を示す日常的な言葉である。自己や自我は少し専門的な言い方であり、自己は自分の身体に力点を置いた言い方であり、一方自我は身体と精神の中心をさす言い方であり、他者に対する存在の中心を指し示してもいる。自己の中心が身体自我と言われ、精神の中心が中心自我と言われる。自己・自分という身体は両親の遺伝子により、物質から造られている。さらに自我・自分は母親に対する我・自分、父親に対する我・自分、おじさん・おばさんに対する甥・姪である我・自分、学校の先生に対する生徒である我・自分などである。このように与えられた身体と数えられる身近な人間関係によって我・自分が決められている。全く異なった一人一人の相手に対して、全く異なった人間関係を通して異なった経験をしてきた自分が一つであることは自然であり当然であるが、実は自分は一つとは限らないのである。自分はあるときはこう考えて、別のときはああ考える。自分はあるときはこう感じて、別のときはああ考える。自分はあるときはこう活動して、別のときはああ活動する。自分はこのような精神の網目の中心であり、中心とはいっても変化したり、移動したりしながら、自分が網目の要素に対して個性的に係わっている。自分は時に主体的であったり、受動的であったりもする。


こころNo.59

日本神話と精神医学-59- 「鳥と葬式」

 天と地を媒介していると考えられている鳥は神の使いとか霊魂の担い手と考えられている。アメノワカヒコが亡くなり葬式をするときに渡り鳥の雁は死者の食べ物を持ち歩く人としてのキサリモチや葬式の後の喪屋を掃く人としてのハハキモチとして役割を割り振られていた。死者に供する飯の生米を搗くつき女・碓女にはスズメが割り当てられ、死者の食物をつかさどる御食人やその下がり物を飲食するし尸者(モノマキ)にはカワセミが当てられている。泣き女にはキジとミソサザイが割り当てられ、死体の汚れを処理する造綿者(ワタツクリ)にはトビ、死者への肉をつかさどる宍人者(シシヒト)にはカラスが割り当てられている。以上のように記紀における鳥は生と死の媒介者として捉えられていて、空を飛ぶということは古代人にとっては大変神秘的なことであった。

 
精神科診療での経験9  ─ 自我 2 ─

 自分の身体・精神状態をコントロールする自我は自然な身体自我だけで作られているのではなく、人や社会との関係をとおして形成されている。自我の主体性や能動性は自分の欲望や欲求をコントロールして家族や他人や社会の必要とすることを自分が望むようになるときに、すなわち自分の意志が確立したときに感じられる。
 自我は自明のように思われているが決して自明ではなく断片的な自我、分裂的な自我、多重の自我などいろいろありうる。普通は意識していないが一瞬我を忘れてしまうときなどは別の自我が出現しているといえる。いらいら、かりかり、めらめら、もやもや、むらむらなど精神が不安定になっている状態は自我が自分全体の統合をしに
くい状態を表している。
 統合失調症はこのような他者に向かう自我による精神の統合機能が弱まり、精神の要素間の結びつきが弱くなる連合弛緩、自我機能形成に重要な働きをする対人関係の難しさを表す自閉・被害意識、統合が弱くなり矛盾する感情や別の自分が同時に存在する両価的状態、自我のまとまりがなくなった結果精神活動が衰退してしまった無為・自閉などによって特徴づけられる。このように統合失調症はまさに自我の疾病といえる。

映画の話しあれこれ41  「パッション」

 イエス(ジム・カヴィーゼル)はユダ(ルカ・リオネッロ)の密告によって、ユダヤ兵に捕らえられ、大祭司カイアファ(マッティア・スブラージア)の屋敷に連行された。この時ペトロはイエスの仲間と見抜かれたが仲間であることを否定する。一方イエスを裏切ったユダは自分の行為の恐ろしさに耐えられなくなり自殺してしまう。イエスから律法を見失っていると批判されていた祭司長たちが自分たちの手を汚さずにイエスを処刑させようとローマ帝国の総督ピラト(ホリスト・ナーモヴ・ショボヴ)に処理を任す。ピラトはイエスには死刑に処すべき罪がないと思うが、群衆の心理を恐れイエスの処理をヘロデ王に委ねるがヘロデ王自身もイエスが罪人ではなく狂人として追い払う。カイアファなどに扇動された群衆の暴動を恐れたピラトはやむを得ず鞭打ちの刑を命じた。酷く打たれたイエスの姿をみても群衆は罰が充分でないと感じていると判断したピラトはイエスに十字架の刑を言い渡した。
 あまりに激しく鞭打たれた体に十字架を背負わされてゴルゴダの丘に進むイエスは意識も薄れつつあった。このイエスにさらに石を投げる者もいたが、彼を慕う民衆の姿もあった。ゴルゴダの丘で十字架に架けるためイエスの手足に太い釘が打ち込まれ頭にはいばらの冠をはめ込まれ張り付けにされた。それでも彼を裁こうとしている人のためにイエスは祈るのであった。
 この映画の題名パッションは受難と訳されているが、イエスに行われた刑の苦痛が圧倒的迫力で観客に迫ってくる映画である。イエスが常人では耐えられない極限的苦痛を信仰を捨てさえすれば避けられたにも拘わらず信仰を捨てなかったこと、自分を追いやった民衆のために神に祈り続けたことなどはその信仰の意義深さを伝える。本来ユダや群衆が行っていることは人間の奥深い意味での罪であり、その深い罪を神の子として救おうとしてきたイエスだからこそなせることであった。これほどの苦しみを民衆の代わりに背負ったイエスだからこそ民衆は救われるのであろう。

こころNo.60
日本神話と精神医学-60-  「七夕信仰」 

 天岩屋戸神話にはアマテラスが衣を織っているときにスサノヲが天班駒を逆剥ぎにして投げ込み、怒ったアマテラスが天岩屋戸に隠れるという話がある。ここではまさしくアマテラスが織女になっている。また日本書紀の月読みの神話にアマテラスが蚕を口に含んで糸をひく話もある。
 中国では道教の最高仙人の東王父が牽牛になり、西王母が織女になり一年に一度あうという星祭りが七夕信仰になった。さて記紀の世界特にアマテラスの特徴の一つに道教と関係する七夕信仰の織女が入ってきているのである。星の話の少ない日本神話では太陽神のアマテラスが織女と結びつかざるをえなかったかもしれない。
 古来、夜空に輝く星は人に希望をもたらし、現実の厳しさに耐えさせ、気持ち・精神を前向きに維持させてきたが、最近人は星をみているのだろうか?

精神科診療での経験10 ─ コミュニケーション1 ─ 

 人間関係には親子関係、家族関係、夫婦間系、友人関係、先生と生徒、同僚との関係、上司と部下など種々の関係がある。友人関係といっても趣味を分かち合ったり、信念を分かち合ったり、精神的支えになったり、金銭の貸し借りがあったり、ただおしゃべりするだけであったり、深く話し合ったりなど浅かったり深かったり種々の関
係がある。自分が経験・体験してきたことには忘れてしまったこと、覚えていないこと、気付いているが言葉に出来ないこと、気付いていないこと、感情を抑えたり、感情を出しすぎたり他の人にはそう簡単には分かって貰えないことなどがある。自分の身体に宿る自分の精神は体験・経験の積み重ねで成り立っている。
 人間はお互い同志、身振りや動作、表情さらに言葉を通してコミュニケーションを持とうとするが、このようなコミュニケーションの手段は単なる体の動きであり、単なる音である声、単なる線である文字である。動きや音、線は送り手の経験・体験を表そうとするがいったんそれを受け取れば受け手の経験・体験にすりかわる。すなわち相手の経験・体験、感情、精神世界はコミュニケーションでは簡単に伝わるわけがない。そこには誤解・錯覚の連続がある。誤解や錯覚があるから意義がないのかというと、全く逆でコミュニケーションを通して人は理解しあって来たし進歩してきている。精神科疾患や障害はこのコミュニケーション障害の問題が大きく関係している。

映画の話しあれこれ42  「トロイ」

 紀元前12-13世紀エーゲ海をはさんでギリシャとトロイは対立・戦争をしてきた。ミュケナイ王アガメムノン(ブライアン・コックス)やその弟スパルタ王メネラオス(ブレンダン・グリーン)はギリシャにやってきたトロイの王子達と和平条約を結んだが、トロイの弟王子パリス(オーランド・ブルーム)がメネラオス王の后ヘレン(ダイアン・クルーガー)に心を奪われトロイに連れ帰ってしまった。その結果ギリシャとトロイは大戦争をするである。ギリシャ軍のなかにはオデッセウス(ショーン・ビーン)やオデッセウスに説得されたアキレス(ブラッド・ピット)とその従兄弟のパトロクロスなどもいた。アガメムノンは権力のため、メネラオスは妻のため、オデッセウスはギリシャのため、アキレスは名声のためそれぞれ戦争に参加するのである。はじめはトロイの兄王子ヘクトル(エリック・バナ)の大活躍でギリシャ軍は大軍にも拘わらず攻めあぐねていた。しかし最初の戦いではトロイ王族の一人ブリセウス(ローズ・バーン)を捕虜としたが、アキレスはこのブリセウスを愛してしまう。さらにアガメムノンとうまくいかないアキレスはしばらく戦いをやめてしまう。
 それもあってかトロイの難攻不落ぶりにギリシャ軍の戦意が急に落ちてきた。このためパトロクロスはアキレスの鎧・兜を着てアキレスに代わって闘ったがヘクトルに負けて殺される。怒り狂ったアキレスはヘクトルと決闘しヘクトルを殺す。さらにオデッセウスの策略によりギリシャ軍が戦いをやめトロイを引き払い木馬を残したと思わせたためトロイ王プリアモス(ピーター・オトゥール)はその木馬をトロイ城に引き入れた。その木馬の中にはアキレスなどギリシャ軍の精鋭がひそんでいた。戦いに勝ったと思ったトロイの民衆は大騒ぎをしてすっかり疲れてしまう。夜になり木馬から出てきたギリシャ兵は城門を開けギリシャの大軍がトロイになだれ込みトロイは陥落する。戦いのさなかブリセウスを救おうとしてアキレスはパリスの矢で射殺されてしまう。
 当時人の命は軽く、運良く生きれば儲けものという考えだったように思われる。アキレスの勇敢さの中にも無情さがあり、男女の愛の中にも刹那的なところがあったようである。アキレスの求めた名誉・名声は歴史に残り、古代人にとって命より大きいと考えたのは分かる気がする。

| | Comments (517) | TrackBack (13)

院内報21-40

■こころ21
日本神話と精神医学21 「天降り」
 高級官僚が省庁の公務を退いて民間のポストや公社・公団などの政府外郭団体のポストに異動することを天降り・天下りといいます。この言葉は日本神話出処であり、現代でも通用している数少ない神話用語です。日本神話では天(あま)とは高天原のことであり高天原からアメノホヒ・アメノワカヒコ・タケミカズチなどが葦原中津国
に降りますが前2者は結局復命せずに、タケミカズチがオオクニヌシに国譲りを実行させます。さらに物部氏の氏神と考えられるニギハヤヒがホノニニギの日向への天孫降臨の以前に河内河上に天降っています。このように天降りは天から邪神の多い地に天孫以外の天津神が降りることをいいます。このことは政府の官僚はこの国の支配者の仲間であり、国民は邪神や支配されるものと同一視されます。官僚は国民の奉仕者でなければならないのに支配者として観念されてきた日本国家の政治構造上の問題があります。天(あま)雨(あめ)降り(ふる)などと関連して生(なま)玉(たま)のようにすばらしい玉(たま)が出現すればいいのですが現在、天は国民の手が届かず、曇っているとしか言えないでしょう。国民自身がこの垂直思考を変えられるかど
うかも重要でしょう。

―精神疾患一般(2)― うつ病 2
 うつを引き起こしやすい執着性格は仕事を最後までやり遂げる徹底性、仕事や作業をきっちり高水準にこなす几帳面性、相手の立場や気持ちを思いやる他者配慮性、与えられた仕事や用事を確実にこなす責任感などで特徴づけられます。この性格は当然他人からみて評価の高い性格であり、目配り・気配り・頑張り・無理をしやすい性格です。さらに自分の体が疲れているにもかかわらず頑張ってしまうことが出来るのは体の疲れを感じにくい体質もあるようです。しかし無理をし続けると突然体が動かなくなります。無理をしてでも成し遂げた仕事や用事はやはり満足のいくものであり、他人の評価だけでなく自分自身もその結果に納得し、そのような仕事ぶりが当たり前
になり当然になります。
執着性格が一層高じて柔軟性がなくなると強迫性格となりうつ病とも関連する強迫神経症にもなります。メランコリー性格の特徴は一言でいうと秩序指向と言えます。自分の生活空間・近隣との関係・仕事仲間・仕事の手順などがかなり秩序立っている人はその秩序にそれだけのエネルギーを割いてきたのであり、それだけの秩序を造り
あげなければ満足しない・落ち着かない・許せないということです。  従ってその秩序を失えば大変な心的外傷を伴いうつになります。しかしはっきりとした対象を失う場合の悲しみ・悲哀とは感情状態が異なっています。秩序ははっきりとした対象ではなく、雰囲気であったり、場であったり、関係であったりします。秩序を失った人
は再度相当なエネルギーを使って秩序を再構成する傾向が強く、それがさらにうつを引き起こします。

映画の話しあれこれ3 「ペイフォワード(可能の王国)」
 新中学一年生のトレバー(ハーレイ・ジュエル・オスメント)は障害を持った性格の堅い社会科教師シモネット(ケビン・スペイシー)に「世界を変えるためには君たちならどうする?」といわれて真剣に考える。トレバーの母アーリーン(ヘレン・ハント)はアルコール依存でありウエイトレスをしながら生計を立てトレバーのためにアルコールを断とうとしている。トレバーの父親もアルコール依存と暴力の問題を持っていて現在は離婚し別居中。このような不幸な家庭を持ったトレバーは悩み続けていた。シモネット先生の提案に対してトレバーは1人が3人によいことをして、よいことをされた3人がそれぞれ3人によいことをすれば世界を変えられるのではないかと
考えます(先贈り・ペイフォワード)。
 実際に銃撃戦の現場を取材中の新聞記者が車をペシャンコにされた時に、見知らぬ紳士が新車ジャガーのキーをその新聞記者に無償であげてペイフォワードと言う。新聞記者はペイフォワードに興味を持ち、その出処を探し求め始める。取材する内に犯罪者が喘息で苦しんでいる患者に受診を優先させてあげたり、軽犯罪者をかくまってあげたり、自殺しようとしている人を必死に説得して助けたり、ホームレスを泊めてあげたり、ペイフォワードの輪は確かに拡がっていたのである。
 希望の少ない世の中でこの少年は希望を見出そうとした。その気持ちが、顔に障害をかかえ女性に対して引っ込み思案であったシモネット先生と、夫に冷たい仕打ちを受けアルコール依存の母との間に愛を生み出した。ところが学校にナイフを持ってきているクラスメートが友人をいじめているのを見たトレバーはペイフォワードするためにこのいじめられている友人を救い、殺されてしまう。トレバー少年は死んでしまったが少年の希望は多くの人の心に希望を生みだし暖かくさせた。現実社会ではある程度以上にペイフォワードは拡がらないかもしれないが、この映画の主張である希望の大切さは人の心や胸をうつ。この映画の中でのように精神科臨床の重要課題である自
殺やアルコール依存などに対しても善意や愛が治癒させる一面があるのは事実である。


■こころ22
日本神話と精神医学-22- 「三種の神器」
 三種の神器は天孫降臨に際してアマテラスがホノニニギに与えたヤサカニマガタマ(玉)、ヤタノカガミ(鏡)、草薙の剣のことを言います。鏡は祭祀・マツリ(松)、剣は戦士・タケダケシイ(竹)、玉は生産・ウム(梅)を象徴しており、インド・ヨーロッパの3機能体系と類似しています。三種の三は社会の最小単位であり、精神分析でも母子の2者関係から発達して、父母子の3者関係になって始めて社会性が出現すると考えられています。ヤサカ・ヤタのヤは無限を意味し、発展を示唆しています。社会の統治の象徴が日本神話に表れており、象徴があって始めて社会や現実の意味が理解できるということです。
 精神現象は物質現象と違って直接感覚できません。従って外界・物質の現象を抽象して精神現象になぞって始めて精神現象を理解し考えることが出来ます。
 例えばうっとうしい天気からうっとうしい気分や気持ちがわかり、晴れた天気から晴れやかな気分や気持ちがわかります。さらにむかつく・頭が痛い・目がまわるなどの体に表れた状態でもって精神現象が語られます。このように精神現象は物質・身体・自然現象によって理解されます。象徴にはこのような意味があるということです。

―精神疾患一般(2)― うつ病 3
 今回は執着性格あるいはメランコリー型がうつを引き起こしやすい理由を自我という観点から述べます。うつ病を引き起こしやすい性格は他者からみて評価の高い真面目な性格であることを述べました。このことは自我が他者・他我ひいては超自我の影響を受けすぎて本来の自我が発現しにくくなっているといえます。簡単に言えばしなければならないことが優先され、したいことが少なくなっているか、あるいはしたいと思っていることがしなければならないことそのものになってしまっているということです。専門的にはこれを偽りの自己ともいいます。本当の自我・自己、本当の自分とは自分の体にあった自我・自己であります。本当の自分には動物的部分もあり、躾
により社会性を身につけ人間になっていきます。自然な体の状態あるいは自己の状態以上に理想や使命、義務感や頑張り、几帳面性や他者配慮性、ゆとりのなさやあそびのなさが目立つと当然無理が生じます。しなければならないことが多すぎると頭が痛くなったり、重くなったりします。同様に体に力を入れて頑張って荷物を背負いすぎると肩が凝ったり、体が疲れてだるくなったりします。背中の荷物が多すぎると体が前屈みになります。
 中年期になって体が老化し始めるころに昇進うつや引っ越しうつがおこったりします。それまでの頑張りが会社に認められて昇進した人が今まで以上の役割を期待されて会社や上司の指示をしっかりこなし、かつ部下にとっても良い上司であろうとしすぎる結果、落ち込んでしまったりします。いままで家庭内のこと、近所付き合い、子
供の学校関係の用事をそつなくこなしてきた奥さんが新築して引っ越しをしたあと、新しく家庭内を整理整頓をして、近所付き合いなどの人間関係もきっちりこなした後うつになったりします。このようなうつの病理も本来の自己よりも役割、関係性、秩序の方に重心があるからだと思われます。

映画の話しあれこれ4 「キャスト・アウェイ」
 宅配便会社フェデックスのシステムエンジニア、チャック・ノーランド(トム・ハンクス)はワーカホリック(仕事中毒)といっていいほどの働きものである。チャックは恋人ケリー(ヘレン・ハント)を愛しているが、ケリーも学位論文に取り組み忙しい生活を送っている。クリスマスの日にチャックは結婚を前提とした指輪をプレゼントをし、ケリーはチャックに自分の写真を入れた祖父の懐中時計をプレゼントする。仕事のためあわただしく別れを告げてチャックは飛行機に乗り込んだ。その飛行機が太平洋に墜落したが、幸か不幸かチャックは無人島に流れ着く。チャックはこの無人島でサバイバルの限界体験をする。
 人は他の人なくしては精神が混乱する。当たり前のことだが「私」という言葉は他の人に向かって言うのであり、他の人がいなければ「私」という言葉は必要なくなる。私が必要なくなるということは精神現象をまとめている私がなくなり、精神が解体する可能性がある。
 チャックは強靱な自我・精神の持ち主であったが、このチャックですら流れ着いたバレーボールに人の顔を書き、ウィルソンと名付けて話しかけるのである(一種の独り言)。今までのチャックが相当しっかりとした自我を持っていても、その自我を維持し支えるためには他者や心の友が必要であることを示唆している。チャックはウィルソンに話しかけながら、苦労して自力で火をおこしたり、生活するための手段を身に付けていく。
 こうして4年もの歳月がたち、チャックは原人のようになり、希望も失いつつあったがケリーへの愛とウィルソンとの友情で生き延びてきた。ある日チャックは筏を作れる材料を手にして、自分で作った筏で無人島を脱出することに成功する。ところが途中唯一の友ウィルソンを海で見失い意気消沈し漂流したのち、通りがかった船に運良く救出される。チャックが戻った以前の世界は限界体験をして変わってしまったチャックにとってしっくりこない世界であった。ケリーもすでに結婚しており、会社の同僚や友人に対しても違和感を感じて一種のカルチャ-ショック状態に陥ってしまったのである。
 しかしこれだけの強靱な精神力をもったチャックは、ケリーへの愛すらもかっこにくくって再出発をするのである。
 この映画は人間の限界状況で必要なものは人への思いであり、人への愛であると語っている。精神医学的にも人を安定させるのは人との適当な付き合いである故にこの映画の主題は良く納得できる。


■ こころ23
日本神話と精神医学-23- 「夢(いめ)」
 精神分析では夢は無意識と関連した重要なテーマであり、夢分析と言われます。夢の内容は常識が通用しません。時間軸に沿った前後関係かつ因果関係が成立していません。空間的関係も自由自在なところがあります。人物の同一性も失われて変幻自在であります。しかし夢の内容はその人の体験の何かを語っていることは確実です。かくしてフロイトは夢を現実問題に翻訳できる可能性を示しました。
 一方人間は日常生活の経験をすべて記憶してしまえば大脳の許容量を越えることは明白であります。従って余計な情報を睡眠中に消去するために夢を見ているという説もあります。この場合夢分析は本人にとって不必要な内容を意識させることになり、精神医学的には問題になる可能性があります。
 神話における夢の例をあげますと神武東征中に熊野で神武軍が危機に落ち入ったときに高倉下が夢をみて天孫に横刀を奉れと言われました。疫病がはやっている時に崇神天皇の夢にオオモノヌシが現れてオオタタネコによるマツリを要求しました。ものを言わないホムチワケのことを心配した垂仁天皇の夢に出雲大神が現れて宮の修理を要求しました。これらの夢に従ったところ敵に勝ったり災いから逃れることが出来ました。このように記紀における夢は天孫が困難に落ち入ったときに神の意志により克服出来ることを伝えています。

―精神疾患一般(4)― うつ病 4
 今回は単相性のうつ病と、そううつ病の違いについて述べます。
 性格的に力強い人〔強力型)が執着性格やメランコリー型性格でもあった場合、そううつ病を引き起こしやすいと考えられます。たいていの人は種々の危機や困難に落ち入った場合「なにくそ」と思って頑張りますが、あまりにも頑張りすぎたり、無理をしてしまうのが力強い執着性格やメランコリー型性格の人であります(そう的防衛)。
 その結果歯止めがなくなり際限のない元気さが続きます。力強く快活であり、全能的にもなり体が動く限り活動します。睡眠時間が短くなり夜中にも活動し、次から次に計画をたて多くの人に活発に話しかけ他の人を圧倒します。本人の主張は正しいことも多いが許容できる範囲が狭くバランスを欠いており、それを指摘すると攻撃的に
なります。お金使いも荒く、次から次ぎに行動しますが落ち着きがありません。結果的にはまともなことは出来ません。当然この活動性は長続きしないで体力の限界にいたり、うつ状態を引き起こします。
 一方弱力型やそれほど強力型でない人の場合は単相性のうつになりやすいと考えられます。そううつ病とうつ病は類縁疾患ですが、病前性格はこのように少々違います。

映画の話しあれこれ5 「山の郵便配達」
 1980年代はじめ、中国湖南省山岳地帯で長年郵便配達をしてきた男(トン・ルゥジュン)は息子(リィウリェ)が跡をついで郵便配達にでかける最初の日に、次男坊という名の犬と一緒に息子についていく。父親は郵便物をとても大事にしており、同時に郵便物を送ったり、待ったりしている人の気持ちを大事にしている。山岳地帯の郵便
配達は過酷な労働だが文句も言わずに唯黙々と仕事をしてきたにもかかわらず、上司は本人の勤務ぶりを評価しなかったので、結局出世もせずに足を悪くして仕事をやめることになった。
 息子は仕事一筋で時々しか家に帰らなかった父親にうち解けられずに、「父さん」と言うことがなかった。その事についてもじっと我慢をして、父親はこれから息子が続けるつらい郵便配達の仕事を気遣い、自分が大事にしてきた郵便配達についての心構えを態度や行動で示そうとした。そのような父親の姿を見ながら息子は父親の郵便
物をとても大事にする態度、それぞれの村の人たちとの郵便を介した交流を尊敬するようになった。
 さらに父親が足を痛めた原因と思われる冷たい川を息子が父親をおぶって渡った後、冷えた体をたき火で暖めている間に、父親は家族への思いを語った。仕事が大変にもかかわらず、いかに父親が息子を、そして母親を思ってきたかがわかり、休息を終わって出発のときに息子は始めて「父さん」とよんだのである。
 こうして息子が父親と一緒に仕事をしている間に、父親の仕事への真面目な態度、人へのやさしさは跡をつぐ息子の心に深い感動を与えた。この映画によって子供の心を開くのは話すことだけではなく真面目な態度によって可能になると感じさせられた。


■ こころ24
日本神話と精神医学-24- 「笑い」
 日本神話にみえる笑いはアマノウズメに関して語られ使われています。アマノウズメが乳房や陰部を露出してアマテラスの隠った天の岩屋戸の前の桶の上で踊るのをみて八百万の神々は高天原が鳴動するまで大笑いをしました。その笑い声をきいて不審に思ったアマテラスが岩屋戸をあけたので、再び世の中が明るくなりました。アマテラスの光は神々の顔・面を照らして、顔が白く・明るくなったので面白いという言葉が笑いと関係して使われるようになっています。
 この話では笑いは性とむすびついています。性も含めて隠されているものや劣等感が表に出るとき、他人は優越感を感じて笑うということがあります。さらに女陰は生産と結びつき、生産は人を豊かにし笑いをもたらすわけです。医学的にも笑いは免疫機能を高めるとも言われていて身体的にも精神的にもプラスの側面が大きいです。し
かし他人をさげすんだり、他人の秘密を知ろうとしたりするフフン、エヘヘ、イヒヒなどの笑いもあります。
 ホノニニギが地上に降臨しようとした時にアマノヤチマタにいたサルタヒコに対してアマノウズメが乳房や陰部を露出して笑い掛けるとサルタヒコが道案内をしにきたと名のりをあげたことから笑いには邪気を断つという意味もあります。邪気を断つことと免疫機能を高めることは、集合無意識的に関係していると思われます。
 笑ってごまかすという悪い意味で使われる語句の精神医学的意味は相手の強い正しい主張をはぐらかすということです。引け目のあるものにとって相手の強さは邪気に近いものかもしれません。

―精神疾患一般(5)― うつ病 5 治療
 うつ病はうっとうしい、元気のない状態です。食欲も睡眠も障害され、朝の調子が特に悪いです。こんな状態になりたくてなっている人はいません。自分でも知らないうちに無理やストレスが加わり続けたり、避けられなかったりするなか調子が悪化していきます。無理やストレス・葛藤はためずに処理出来れば病気にはなりません。う
つ状態の場合の無理とは何であるのか、あるいはその処理方法は症状によって示されています。うつは頭が重くなり頭を前に下げ、それだけ首や肩が凝ってきます。前が見えなくなり目的や希望がなくなり、顔も下を向いて食事もとりにくくなります。足や手の動作が鈍く、地に沈んだ状態になります。この状態になるには成らざるを得な
い無理が加わったからです。もし本人が調整出来ていたならこうなる前に自分を楽にすることが出来ているはずですが、無理が加わらないように調整することが出来なかったわけです。こんなうつ状態にも関わらず、家族や周りを安心させるためか自分の信念のためか必死で頑張って姿勢をよくして前を向いて進んで行く人が多いようです。
そうすれば一層の無理がたまり、うつ状態はますますわるくなります。無理が加わって元気がなくなってきているのにさらに無理をするわけです。
 この無理をとることがうつ状態の治療にとって最重要な課題になります。うつのときの自然な過ごし方とは前屈みのまま元気なく過ごすということです。うつの状態の時に無理なくすごすためには動かなくて良いということです。頑張ってより一層肩を凝らしてはいけないということです。周りも本人を励まさずに、出来るだけあせらず、ゆっくりするようすすめます。しかし食事や睡眠その他最低限しなければならないことがあるので周りは助けてあげられることは助けてあげる必要があります。すこし動けるようになったからといってすぐに動かずにしばらくはゆっくりすることが大事です。
 以上をまとめて「井戸水の例え」という形で述べます。ある時期天候のせいで地下水が少なくなり井戸水の溜まりが悪くなります。真面目に水を汲んでいる人であればあるほど井戸水が早く枯れます。また真面目なひとは水が枯れても水を汲もうとして、汲んでも汲んでも水を汲めずに、疲労と焦りと空回りがどんどん強くなります。これ
に対する答えは簡単です。水を汲むのを一時期休めばいいのです。休めば水が少しだけ溜まります。しかし水が溜まれば底の浅さが分からなくなり、再び水を一所懸命汲み始めます。するとすぐに空になり同じうつ状態がおこります。動けるようになってもすぐ前のように頑張るのではなく慎重に慣らし運転で動かなければなりません。

映画の話しあれこれ6 「ホタル」
 昭和から平成に変わった頃、特攻隊員(神風特別攻撃隊)の生き残り山岡(高倉建)は腎臓の悪い妻知子(田中祐子)と鹿児島で魚の養殖をしながら生活をしていた。冬のある日同じ特攻の生き残り藤枝(井川比左志)が青森の山中でなくなったという知らせを受ける。第二次世界大戦の当事者である昭和天皇がなくなったことが藤枝の生を終わらしたのである。終戦前、山岡と藤枝は鹿児島からアメリカの戦艦に体当たりして自爆する特攻隊員であったが飛行機に問題がおこって死ねなかった生き残りであった。しかし二人の戦友金山は日本人の恋人知子を残して、朝鮮人にもかかわらず日本兵として特攻で死んで行ったのである。その金山は死ぬ間際に日本のためではなく朝鮮のために死ぬ、そして恋人知子と出会えて幸せだったという言葉を残していたのである。ある日山岡は多くの特効隊員を見送ってきた飲食店を経営している知覧の母山中富子(奈良岡朋子)から金山の形見を韓国の遺族に渡してくれと頼まれたのである。実は金山の恋人知子は今は山岡の妻であり、妻の元恋人金山の故郷韓国に日本の特効隊員として死んでいった金山の最後の言葉を告げ、形見を渡しに行くのはとても大き
な度量が必要だったのである。
 韓国の人は日本に対して反感を持っており、日本のために死んだ金山を信じたくないのである。しかし山岡が勇気をもって韓国行きを決断したのは金山の言葉を遺族に伝えることによって、金山が生きていたことを伝え、金山さらには自分を生かしたかったのである。
 ところで日本という言葉は天武・持統朝の時に天皇という言葉とともに使われ始めた。その頃はオキナワ・アイヌも日本ではなく、縄文文化の影響が色濃く残る東北・東日本への影響もまだ少なくて、日本は弥生文化・古墳文化を引き継いだ大和を中心としたイメージであった。その後東西日本が沖縄や陸奥・北海道を残して西の政権(天皇制)によって融合しながら、元寇が出現した頃には東の政権(鎌倉幕府)が始めて東西を統一しようとしていた。その元寇の脅威が神風によって除かれ助かったために、神風日本が強調され始めたのである。明治以降日本・ヤマトがオキナワ・アイヌを抑圧して出来た神風日本が同様に朝鮮・台湾を支配し、太平洋戦争を引き起こし、
神風特攻隊も生みだした。
 この映画は民族の問題と帝国主義の矛盾をもテーマにしており個人の精神や身体を犠牲にしてきた大日本帝国についても描いている。この映画は個々人の精神を抑圧してきた社会・国家、個々の国が構成している世界・地球など、個と全体に関わる大変難しいテーマをふくんでいる。


■ こころ25
日本神話と精神医学-25- 「異常出生」
 新しいことを発明・発見したり、未来を予測してこれからのことを自信をもって進めたり、人の出来ないことをするなど大変困難を伴う生き方は普通の人には出来ないことである。神話では神聖さや不思議な力を賦与された神々は通常とは異なる仕方で出生したと語られている。イザナギの目・鼻からアマテラスオオミカミ・ツキヨミノ
ミコト・スサノヲノミコトの三貴子がうまれている。ホデリ・ホヲリノミコトなどの火中出生の話もある。血流の異常としてはホヲリノミコトとトヨタマヒメ(わに)の間にウガヤフキアエズノミコトが生まれている。懐妊の異常については一夜孕み、丹塗り矢による懐妊などもある。雄略天皇が生まれた時にはあやしき光が満ちたという話もある。これらは生まれつきの問題であり、もともと与えられている力が人生において発揮するという所与とか天賦の力という考え方である。すばらしいことをするにはそれだけ大変な出来事が必要であるということである。運命という言葉も人間を越えたものであり、個人の力を越えたものが人生において発揮するということを語っている。西洋人と違って日本人は自力より他力本願を願う傾向があり、その心理とも通じている。
 人は自分の遺伝子を自分で選んではいないし、両親も兄弟も生まれてくる場所も自分では選んでいないのである。偶然に日本人になったのである。精神疾患もなりたくてなっている人はひとりもいない。ひとりひとり全く違う与えられた条件の中で生き生きと生きることが大事である。
 
―精神疾患一般(6)― うつ病 6 治療
 うつ病に有効な薬物は抗うつ剤です。抗うつ剤には三環系抗うつ剤、四環系抗うつ剤、最近投与可能になったSSRI、SNRIなどがあります。抗うつ剤はうつ状態と関連している脳内伝達物質セロトニン、ノルアドレナリンなどの調節をして抗うつ効果を発揮すると考えられます。旧来の三環系抗うつ剤はアセチルコリンなどにも作用し、便
秘・口喝・起立性低血圧などの副作用をよく引き起こします。最近この欠点をなくしアセチルコリンに作用しないSSRI・SNRIが使われつつあります。その他情動調整剤と言われているスルピリドもうつ気分・焦燥感・食欲不振などに効き目があります。うつ状態では不眠・焦燥感・不安などが多くの症例で発現してそれぞれの症状に対して対症的に睡眠剤・抗不安剤などの安定剤を投与します。
 うつ状態にはうつ気分の強い場合とか焦燥感・希死念慮の強い場合さらに食欲不振や不眠が強い場合など種々の病態があり、それぞれの場合に対して一層有効と考えられる抗うつ剤などがあります。薬物は身体特に神経系に働き症状は回復しますが良くなったと思ってすぐに薬を抜けば再発は当然考えられます。薬を抜いても本当に大丈夫な状態になるには最低6ヶ月は服薬の必要があると言われています。

映画の話しあれこれ7 「クイルズ(羽ペン)」
 マルキ・ド・サドはサド侯爵と呼ばれて異常性行動サヂズムの言葉の語源になっている。精神医学でサヂズムは上記性欲の異常以外に精神分析的な意味でも使われていて、他者を攻撃する他罰的心理に使われる。
 この映画はサド侯爵の一面を描いたフィクションである。マルキ・ド・サド(ジェフリー・ラッシュ)は猥褻文書頒布の罪でナポレオン体制下の警察に逮捕されシャラントン精神病院に入院させられる。金の力で特別待遇を手に入れていたサド侯爵は理事長のド・クルミエ神父(ホアキン・フェニクス)の「邪悪な考えは紙の上に吐き出されることによって治療される」という考えによってサド侯爵は執筆も許可されていた。しかしサド侯爵は神父の温情を裏切って小間使いのマドレーヌ(ケイト・ウインスレット)の橋渡しで彼の著書を闇の出版物として世間に公表していた。マドレーヌは日々の仕事の疲れのなかでサド侯爵の肉欲と堕落の物語によって現実のつらさを忘れることが出来ていた。
 ナポレオンは怒ってサド侯爵を矯正するため拷問具を使って荒治療するコラール博士(マイケル・ケイン)を新院長に任命した。サド侯爵は性に関する執筆・出版をどんなに拷問されても続けるのであった。書くペンやインクがないときは鳥の骨と自分の血でシーツや服装に執筆する。そのうちマドレーヌがサド侯爵の協力者であること
が発覚しコラール博士によってむち打ちの刑をうけ、シャラントンを追い出されることになった。マドレーヌはクルミエ神父に遠くにやらないように頼むが神に身を捧げたクルミエ神父としてはマドレーヌに対する愛や情熱を抑えなければならなかった。
 一方コラール博士の若い妻もサド侯爵の本を読んでいて若者と駆け落ちしてしまった結果、博士はますますサド侯爵を拷問するようになった。サド侯爵が考えついた手段は患者から患者へ口から耳へサド侯爵の言葉をマドレーヌに伝えることであった。この作業中にある患者が精神的混乱を起こしシャラントン病院の火事を引き起こした。
マドレーヌは火事のどさくさの中でマドレーヌに片思いをしていたある患者に殺されてしまう。その結果もろもろの罪でサド侯爵は拷問され死んでしまう。一方マドレーヌを失ったクルミエ神父は正気を失って執筆を執拗に要求するサド侯爵の真似をするだけになってしまった。
 背徳と邪悪さらに肉欲と怠惰についての著作にこれほど強い執筆要求を持てるということは人間の根源的要求と体制に対する根源的反発、パラノイックな性格傾向などが組合わさった結果であろう。さらにその時代に多くの読者がいたということ、大衆の体制への反発がサド侯爵を支えたのであろう。一方善良であったクルミエ神父は自分の情熱・欲求と聖職の板挟みの中でマドレーヌに死なれて正気を失うのである。聖職者も善良ばかりでは身が持たない場合があるということである。


■こころ26
日本神話と精神医学-26- 「柱」
 神さまを数えるのに通常柱を使いますが同様に中心を表すのに柱が使われます。例えば主人のことを大黒柱といいます。人間の精神にも柱・中心が必要でそれが自我と考えられます。その自我が不安定なら宗教などのより大きな柱に頼ったりします。
 日本神話の最初の神は天の御中主と言います。この神はあまり神話で活躍しません。このように一番中心の神が活躍しないのは日本人の精神構造と関連していると思われます。すなわち外国人と比べて主体性が弱く自我より集団の和を優先させる傾向があることです。またイザナキ・イザナミが原初の海を矛でかき回して作ったオノゴロ島の上に立てて国産みの起点となった天の御柱も中心のイメージです。その他伊勢の心御柱や諏訪の御柱祭りも有名です。
 仁徳記伝説でもその影が淡路島や高安山まで至る巨木の神聖さが語られています。巨木・柱は天に向かって立ち、その影は太陽と関係しており高天原神話と深く関係しています。
 日本人の精神の安定性は、あまり活躍しない巨木や中心柱のイメージによって得られることを示唆していると思われます。

―精神疾患一般(7)― 神経症 1 不安障害
 神経症は最近不安障害、身体表現性障害、解離性障害などと言われるようになってきています。不安障害にはパニック障害、広場恐怖、特定の恐怖症、社会恐怖、強迫性障害、外傷後ストレス障害、急性ストレス障害、全般性不安障害などがあります。
 今回は先ず不安について話したいと思います。不安は一般的にははっきりした対象のない不快感や憂慮をいいます。症状としては動悸、頻脈、高血圧、振戦、頻尿、胸部不快感、胸苦しさ、息苦しさ、下痢など種々のものがおこります。対象のはっきりしている恐怖とちがって不安は慢性の漠然としたものです。
 人間の精神は小宇宙と言われたりするように、絶対的完全な精神世界とはほど遠いです。当たり前のことですが人間の精神は分かることしか分かりませんし、見えること、聞こえることしか感覚出来ません。さらに感じることしか感じません。分からないこと、感覚出来ないこと、感じないことだらけです。従って非常に小さい精神世界
に閉じこめられているとも言えます。ある意味では闇に包まれているともいえます。
 このような状態は原不安とも言いますが、若い人は人生結構活動的で走っているともいえて、あまり立ち止まることもなくこの種の不安は比較的感じないですんでいるようです。しかし年をとるに従って人は何か大きなもの(宗教など)に支えられたり、人間関係に支えられて、どうにか安定をはかっているようです。しかし人生色々なことが起こり、年をとり、病気もします。
 このように人間は根源的に不安な存在と考えられます。人間関係が重要にも関わらず、お互い全く違った価値観や人生観をもった存在のためストレスが絶えません。この種のストレスによる葛藤も不安の原因です。さらに幼児期からの種々のつらい経験も現在の状況との関係で不安を引き起こしたりします。どのような症状もそうですが
不安をなくそうとすればするほど不安が襲ってきます。不安をもちながら人間関係のなかで日常生活を送ることが不安をやわらげます。

映画の話しあれこれ8 「A.I.」
 時代はテクノロジーが進歩している近未来でロボットが社会にとけ込んでいる。しかしロボットには感情はなく、子供のいない家庭では感情をもったロボットを期待するのは当然であろう。
 ある会社が感情をもつロボットの開発に成功し、デイビッド(ハーレイ・ジョエル・オスメント)と名付けられた。デイビッドはその子供が意識不明になっている夫妻の家に預けられる。しかしその子供が奇跡的に意識を戻したため、子供とうまく行かなくなったデイビッドはその母親に愛されつつも捨てられてしまう。愛を求めるようプログラムされてあるデイビッドはそれでもその母の愛を求め続けるのである。
 小熊のトイ・ロボット・テディと性愛ロボットのジゴロ・ジョー(ジュード・ロウ)の助けを借りて母の愛を取り戻してくれるというブルーフェアリーを探し始める。その後ブルーフェアリーを求めてヘリコプターに乗ってデイビッドはさまよい、海のなかで海に沈んだ公園の張りぼてのブルーフェアリーと出会い、沈んだヘリコプターの中でテディとともに何千年という停止期間が過ぎ去る。
 進化した生物によって発見されたデイビットとテディは再生された。テデイの持っていた母親の毛からクローン再生された母親と一日だけ過ごす。クローンの母親は一日しか生きれないのである。デイビッドはたった一日だったけれど、母親との幸せな生活が実現したのである。
 このロボットには感情があり人は感情によって動かされ、この映画を見るものはデイビッドがロボットであることを忘れてしまう。愛や感情が人の精神にとって最重要であることをこの映画は語っている。


■こころ27
日本神話と精神医学-27- 「なまこ」
 日本は海に囲まれた国であり、海産物は海の幸として尊ばれている。日本神話でも海産物と生産を表す性とが深く結びつけられて語られている。
 男性器の象徴でもあるサルタヒコは伊勢の海で女性器象徴である比良夫貝にかまれておぼれます。溺れる時の泡立ちを表すソコトクミタマ、ツブタツミタマ、アワサクミタマに神霊化しました。サルタビコは葦原中津国の先導役であり、さらに伊勢の海への先導役です。こうして天神達は国土と周囲の海を支配できるようになります。古
代から伊勢の海の海産物は天皇家の食膳を賑わしていることと関係しています。さらに別の女性器の象徴であるアメノウズメは海中のさまざまな種類の魚達をすべて集めて「あなた達は天津神の御子にお仕えしますか?」と聞きました。魚たちは「お仕えします」と答えましたが、なまこだけが返事をしませんでした。それ故アマノウズメ
は「この口は返事をしないのか?」といってなまこの口を裂きました。このことはそれまで閉じられていた通路を開くという意味があります。未開の状態から天孫の領土になることを示しています。領る(しる)、知る、白は関係していてなまこの口を開くということには言葉、知識、生産などが関係しています。なまという言葉も生と関係していて、非常に興味深いと思われます。

―精神疾患一般(8)― 神経症 2 パニック障害1
 パニック発作とは動悸・発汗・ふるえ・息苦しさ・胸部不快感・腹部不快感・めまい・離人症状・死に対する不安などが突然出現し、10分以内に頂点に達することをいう。
 パニック障害はパニック発作が繰り返しおこり、予期不安あるいは発作という病気の心配さらに発作による行動変化を伴うものです。これに広場恐怖を伴うものと伴わないものがあります。パニック発作は抗うつ剤が効くためにうつ病との関連性が指摘されています。すなわちうつ病と同じく体質的・性格的なものも関係している可能性
があります。
 心理的には循環・呼吸器症状が主なものあり、不安症状そのものといえます。循環・呼吸器系の症状はまさに空気が不足しているときの状態であります。心理的に空気が不足しているのは人間関係が少なく孤独な心理状態か人混みのような酸素が薄くなる窒息状況と関係していると思われます。孤独ないし人混みという意識、あるいは閉所・広場と関係している心理はまさしく人間関係の密度と関係していると思われます。人間関係の距離感や多少は人間という小宇宙のあり方に大きく影響します。

映画の話しあれこれ9 「大河の一滴」
 小林雪子(安田成美)は友人の川村亜美(南野陽子)の輸入雑貨店で仕事をしている。商品の買い付けに世界中飛び回っている。ロシアに行ったときに会ったガイド・ニコライ(セルゲイ・ナカリャコフ)はトランペット奏者で東京にあるオーケストラのオーディションを受けるために来日した。雪子はニコライとニコライのトランペットに心惹かれ、ニコライを応援する。そんな時雪子の父・伸一郎(三国連太郎)が倒れたと連絡が入り実家のある金沢に戻る。父はがんこで入院をいやがり、母・摩梨江(倍賞美津子)と幼なじみの昌治(渡辺篤郎)に手伝って貰って父を無理矢理入院させた。検査結果はガンでありあと半年の命と宣告された。しかし伸一郎は手術を拒否する。
 その頃雪子の友人亜美の店が倒産する。友人・亜美は恋人に大金をつぎ込んでいたのである。亜美は雪子に会いに金沢まできて、スナックで一緒にお酒を飲んだあと自殺してしまう。一方伸一郎は前にもまして郵便局の仕事に精を出す。雪子はそんななか金沢のオーケストラのオーデイションの話を昌治から聞き出し東京では不合格だったニコライを金沢に呼ぶ。ニコライは昌治の家で泊まり、金沢の伝統工芸に触れる。さらに雪子と父親とセルゲイの3人で温泉旅行する。旅行中伸一郎はソ連収容所体験を語り、ニコライはニコライの父がアフガン戦争で亡くなったことを伝える。
 ニコライのオーデイションの日に伸一郎は死に、ニコライは合格の通知を聞くことなくヴィザ切れで強制送還されてしまう。雪子はニコライを忘れられなくて幼なじみの昌治にニコライに会いに行くのにロシアまで一緒に行ってくれと頼む。昌治は雪子を愛しているが、雪子には単なる幼なじみであった。複雑な気持ちで昌治は雪子と一
緒にロシアに行くが、ニコライは結婚していた。雪子は傷心であったが、昌治が雪子の気持ちを癒してくれた。結局は昌治が雪子に合っているのだろう。
 この映画は一人一人の人生の大切さを語っている。誰とも比較できない一人一人の人生。伸一郎の場合がんの手術を拒否しても自分の生き方を押しとうす信念である。昌治の場合平凡に徹して雪子の感情・気持ちをいたわるありかたである。ニコライの場合オーディションに採用されることなくロシアに帰らなければならなくなったにも
かかわらず淡々と受け入れている。雪子の場合、好きなニコライをあきらめなければならないにもかかわらず、人間関係に対する深い信頼を感じさせる。自分の信念を大事に生きることが一人一人意味深い人生になると語っている。一人一人全く違う人生にも関わらず、みんな関係しあって人間歴史の大きな流れになっている。信念を持っ
て生きることが大変素晴らしいと感じさせる映画である。


■ こころ28
日本神話と精神医学-28-  「荒ブル神」
 国譲り神話ではチハヤブルアラブル国津神が葦原中津国にいて荒々しいわざを行っているので高天原の神がコトムケヤワシタとあります。神武東征説話では熊野の山より奥にいる神として現れ、天皇にコトムケヤワサレル対象になります。ヤマトタケル説話でもコトムケヤワサレル東西の神々が出現します。このように荒ブル神は言向け柔す対象になる神です。
 アレル、アライ、はアル、アリアリ、アラワレル、アラタシイ、アラアラシイと関連し、新生、出現、変動を表します。未開、未知の世界に出現する新しい現象を荒々しいと感じるのは当然のことであり、それに光をあて、既知化し、征服すること、すなわち白くする、知る、領る(しる)ことを言向け柔すと言ってます。
 コトムケとは言葉の力によって相手を柔らかくする、服属させることです。荒々しい未知の精神現象も言葉の力によってその精神現象を明らかにすることにより落ち着かせることを最近は認知療法といって単なる説得とは違う方法で応用されています。
 使い方により言葉は威力を発揮するということです。
 
―精神疾患一般(9)― 神経症 3 パニック障害2
 パニックのパンはギリシャ神話の牧羊神であり、森林を支配する神でもあり、森林の不気味な恐怖感はパンの神によるしわざと考えてパニックテラーと言われます。パニック発作はパニック障害以外の他の疾患やカフェインなどの薬物によっても起こります。発作の特徴は呼吸困難や動機、もう死んでしまうのではないかという症状です
が、パニック発作の類似・関連疾患に呼吸困難を起こし、過呼吸になり体がアルカリ性になって手足がしびれる過呼吸症候群があります。
 パニック障害はパニック発作を数ヶ月に1回以上起こし、発作出現を恐れて日常・社会生活上の機能障害を来しているものをいいます。ほとんどの例に広場恐怖が伴います。広場といってもそれは家の外に1人でいたり、列にならんでいたり、バス、電車、自動車の中などのように発作がおこっても助けてもらえない状況をいいます。
 パニックも強迫もうつも抗うつ剤・アナフラニール、トフラニール、SSRI、SNRIが効き、遺伝歴があり、性格的にも神経質でこだわる傾向や几帳面な傾向があります。また脳内伝達物質セロトニン、ノルアドレナリンが関係していると言われています。精神病理的にはこだわる性格傾向はそれだけ心的エネルギーを消費し、そのように躾けられるには無理や強い衝動が蓄積されている可能性があります。強迫の場合、この衝動性はガス、火事、泥棒、ゴミ、細菌などの強迫的観念になり、衝動性を押さえ込むのに使われる心的機制は強迫行為、強迫儀式です。性格的に弱力傾向の場合は衝動を頑張って押さえているがこらえきれずにパニック発作として出現すると考
えられます。他方、几帳面に真面目に頑張り続けてきたが、限界がくると鬱状態になると考えられます。このようにこれらの疾患は心的構造上近い部分があります。

映画の話しあれこれ10 「コレリ大尉のマンドリン」
 第2次世界大戦初期ギリシャはイタリアとアルバニアで闘って勝ったが、ドイツが参戦してギリシャは敗れる。結果、ギリシャの一部はドイツの同盟国イタリアに支配されることになる。イオニア諸島最大のケファロニア島の医師イアンニス(ジョン・ハート)の娘ペラギア(ペネロペ・クルス)は漁師の恋人マンドラス(クリスチャン・ベール)が戦争に参加し彼を待ち続けていた。そんなころイタリアの侵略部隊大尉コレリ(ニコラス・ケイジ)とペラギアは出会う。ペラギアは当初当然イタリア人コレリを嫌っていたが、ペラギアの家がコレリの宿泊地になり、コレリ大尉の音楽好き、マンドリンの演奏技術、人なつっこさを徐々に好きになる。やがてマンドラスとの恋遊びとは違って、コレリへの思いは本当の恋だと気付く。            
 イタリアは連合軍に敗れ、ドイツがギリシャを完全支配するため、イタリアがギリシャから撤退した。コレリ大尉の部隊はドイツが信用できずにドイツと闘わざるを得なくなってしまった。ドイツ軍は 強く、コレリ大尉の部隊は捕虜になる。ドイツ軍は捕虜を死刑にしたが、部下に好かれていたコレリは銃弾の嵐のなか部下に守られ、かすかな命脈を保ち、イアンニスに手術をしてもらって助かった。元気になったコレリ大尉はマンドラスに助けられてイタリアに帰国した。やがてドイツは敗れてギリシャケファロニア島にも平和がやって来た。ペラギアはコレリが去ったあとずうっと待ち続けている。数年後コレリはケファロニア島のペラギアを忘れることが出来ずに会いにやって来た。戦争中にもかかわらず、戦争中だからこそ愛の絆は深いのだろう。さらに戦争中はコレり大尉の音楽が戦争の悲惨さを和らげ、人々の心を捕らえ、一服の清涼剤にもなった。音楽は人の心を豊かにするのだと改めて感じた。


■ こころ29
日本神話と精神医学-29- 「アマノジャク」
 アマノジャクは日本神話のアマノサグメから由来していると考えられている。高天原の使いの雉がユツカツラという木にとまって、アメノワカヒコに天神の言葉を伝えようしたがアマノサグメはその雉を鳴き声がひどいと言ってアメノワカヒコに射殺するように言った結果、ワカヒコは雉を殺そうとしたが逆に返し矢で死んでしまう。アメノサグメのサグは探ると関係していて神の世界を知って人のこころに影響を与える巫女を象徴していると考えられる。アマノジャクの通常の意味は人の反対を言ったり、したりして、困らせる人を言う。その底には人の無意識に働きかけて人が何に劣等感やコンプレックスを持っているのかを表す一面があると考えられる。すなわち人が何かに困って、何かに不快な思いをするということは、その出来事に関心をもってはいるがそれに反対されることで獲得したいものが得られないというジレンマ・葛藤・ストレスを感じることである。そしてそのジレンマ・ストレス・困難な出来事を処理して始めて自分を深くすることが出来るが逆にワカヒコのように自分の蒔いた種で失敗してしまうこともある。仏教の世界でも天の邪鬼は四天王に踏みつけられているがそれは天の邪鬼に打ち勝って悟りを得ることを表していると思われる。このように現実社会ではアマノジャクをそのように捉えることによって深い意味を読みとり、体験を深くすることが出来る。

―精神疾患一般(10)― 神経症 4 強迫性障害
 強迫とはある種の観念・考えが強く精神に迫って来て、いくら不合理だと思っていても、考えざるをえずその行為をせざるをえなくなることであります。強迫症状には強迫観念と強迫行為があります。強迫症状の多くはガス、火事、泥棒、細菌、ごみ、汚物、けがなど社会的にみて良くないあるいは不必要な出来事や観念が起こってくることが多いようです。本人にもこれは馬鹿げた有り得ないことと分かっているにも拘わらず、それを打ち消すことが出来ずに強く迫まられます。その結果そんなことが起こっていないかどうか、問題がないかどうかを確かめざるをえず、自分を安心し納得させるために確認行為が何度も繰り返されます。確かめても、確かめても安心出来ず
に、確かめれば確かめるほど不安になってくる傾向があります。
 従って、治療の一つは頑張って回数を増やさずに維持することに努め、調子のよいときに回数を減らすことが大事と思われます。この強い衝動を抑えようとする行動が確認行為すなわち一種の儀式ではないかと思われます。この強い衝動は精神分析的には肛門期の固着症状とも考えられています。すなわち清潔不潔がテーマであるトイレットトレーニングの時期に母親などがかなりきっちりきびしく訓練すると子供は自分の排出物を母親がきらっていると感じて溜め込んだり(便秘、倹約家、けち、しぶちん)非常に堅く肛門をしめつけたりして(サイフのひもを堅くしめる、がんこ、きっちり)力強い肛門括約筋性格が出来ます。反対に躾けがゆるいとたれ流したり・ええ加減な・
だらしない(公害たれながし、不潔、借金しすぎ)性格になり家族が尻拭いをせざるをえなくなります。ところで強迫症状にはあまたある出来事のうち特定の事だけに関心・注意が行ってしまってその出来事がますます気になる悪循環に落ち入る傾向があります。治療にはアナフラニール、SSRIなどの抗うつ剤が効きます。薬剤の効き
にくい場合行動療法や脱感作療法などが使われます。しかし強迫性障害は不安障害のうち最も難しい疾患と考えられています。

映画の話しあれこれ11 「かあちゃん」
 江戸時代水野天保改革が失敗に終わり庶民の暮らしはどん底状態であった。そのように苦しい時代にも母ちゃん・おかつ(岸恵子)と5人の子供達はけなげに元気良く生活していた。数年前、同じ大工の仕事をしている長男・市太(うじきつよし)の友人源さん(尾藤イサオ)が生活に困って仕事場のお金を盗んだ罪で島送りにされたの
である。一度島送りにされるともう大工には戻れないのである。そんな長男の友人を助けるため母ちゃんは刑を終えて出てきた彼がこの不景気のなか家族を食べさせていくための生活費や仕事の元手を自分たちが代わりに稼いであげようと家族に提案したところ家族は兄貴の友人を助けるために快く協力を引き受けるのである。さらにそれを同じ長屋に住むみんなに知られないように注意する。そのことをみんなに知られては本人たちはつらい思いをするという配慮からであった。しかし長屋の他の住人は家族の必死の貯蓄に対して事情を知らないが故に文句を言うのであった。このように良いことをすることは大変な困難を乗り越えて始めて出来るのであろう。この間に金を
貯め込んでいると聞きつけた泥棒が入るがこの泥棒・勇吉(原田龍二)は時代の流れのなかでやはり最近過ちを犯すようになった若者である。この泥棒も根は善良ということで母ちゃんは自分の子供と同じ様に接するから内で暮らしなさいとすすめる。泥棒の若者もお金が人のために貯められたのを知って反省するのである。そしていよい
よ友人が出所の日にみんなでお祝いと元気づけをするのである。勇吉も不景気のなか仕事がみつかり、他人にもかかわらずおかつに母ちゃんというのである。話はうまくできすぎているが、困難のなか、ひとのためにつくすことが結局子供達の精神的健康を産みだしているという話でもある。その後、一番下の子供ももうお金を貯める必要
もないのに、身についた習慣から働き者になるのである。あまりにも追いつめられては駄目だろうが困難を乗り越えて生き生きする姿を描いた映画である。


■ こころ30
日本神話と精神医学-30- 「ホノカグツチ」
 カグはかがやく、かがみなどで使われるように光りと関係しています。この音は他には日本神話で星の神カガセヲあるいは古代の物語竹取でカグヤヒメなどとして使われています。ホは火を表しており、チは血、土、乳、口、オロチなど生命に直結した霊格を表しています。従ってホノカグツチは火が燃えている状態の霊性を表し、それ
がイザナミの女陰・火戸(ホト)と結びついた結果イザナミはホノカグツチを産むときに亡くなってしまう。イザナキが怒ってホノカグツチを斬った後に雷神、剣神、水神、山の神など木、土、水、金に関係した神々が生まれます。これらは五行説に説かれているように火、水、木、金、土として人間の生きている世界全体を生みだします。
すなわち女陰と火が種々の物を生み出しています。
 新しい物を生み出すのは火のような強い力が必要ですが、精神状態にもあてはまります。新しい生き生きとした精神状態になるには火のような激しい状態を経過する必要があるということでしょう。
 人間を包んでいる自然環境には中心的なものがあり、アマテラス、スサノヲ、ツキヨミ3貴子の誕生はイザナミが死んでイザナキが黄泉の国を訪れイザナミの連れ戻しに失敗した後であるのは当然ともいえます。すなわち人がしっかりとした目的をもって社会で生き生きと生きていくためには背景の諸条件が整えられて始めて可能になる
ということを表しているのでしょう。

―精神疾患一般(11)― 神経症 5  PTSD(心的外傷後ストレス障害)
 阪神大震災の時にPTSDが新聞でよくとりあげられました。最近では池田小児童殺傷事件での児童のPTSDが問題にされました。
 心的外傷の基準はたいていの人間なら命に関わる出来事あるいは精神にとって限界的負荷であり、多くの人に精神的障害を引き起こすものであります。当然いじめや犯罪の被害者もPTSDを引き起こします。主な症状は侵入、麻痺、過覚醒でありその他不安障害・身体表現性障害・解離障害などをともないます。
 侵入とはその心的外傷が繰り返し出現し、心的外傷と関連する状況や類似状況あるいは関連なく、心的外傷の場面がおそってきて精神が参ってしまう症状であります(フラッシュ・バック)。麻痺は過度のストレスが影響して生き生きと生きていくことができなくなり、抑うつ、無関心、意欲低下などが起こってくることです。過覚醒
は精神がいつも緊張していて不安な状態であり夜間の睡眠もとりにくい症状です。このような症状に加えて易興奮性、衝動性の亢進、感情の易変性、さらに種々な自律神経症状などを引き起こしてきます。基本的にはこれらの症状や出来事は消し去ることの出来ないものであり、これらの症状を持ちながらいかに気分や行動を転換させられるか、すなわち他に楽しいこと、やりがいのあること、やる気のでることを人間関係
を通じてやっていけるようになることが大事です。

映画の話しあれこれ12 「ムーラン・ルージュ」
 放浪の旅を続けながら作家として世に出ようとしている若者クリスチャン(ユアン・マクレガー)がムーラン・ルージュを立て直す芝居を偶然に任される。その主人公を演じる高級娼婦サティーン(ニコール・キッドマン)とはお互い心から愛し合うようになる。しかしサティーンを自分のものにしたい公爵(リチャード・ロクスボロウ)はその芝居に投資しており、芝居を成功させたいムーラン・ルージュのオーナー・シドラー(ジム・ブロードベント)もサティーンを公爵に与えたいと思っている。
 芝居の内容もインドを舞台にしているが、美しい娘をめぐるマハラジャと貧しいシター弾きの三角関係であり、現実をもじったものである。
 しかしクリスチャンの詩や作家としての才能と真心がお金のために働く娼婦のサティーンに本当の恋いを引き起こすのである。サティーンは貧乏作家クリスチャンや借金で火の車のシドラーを助けるために公爵を気に入っているようなそぶりをして騙しながら、芝居にお金を出させようと努力をし続ける。芝居が完成した時にはサティーンは公爵のもとに行く約束をしているのであるが、芝居の完成以前にサティーンは結核に犯されているのがわかるのである。芝居完成の直前二人の仲が公爵にばれ、クリスチャンと二人で逃げる約束をしたが同時にサティーンは自分の余命が幾ばくもないことがわかる。公爵がクリスチャンを殺そうとしたため、サティーンはクリスチャン
のために彼と逃げる約束を破って公爵のもとに行く決断をした。しかし裏切られたと思ったクリスチャンとサティーンとの愛はやはり本物で堅く、公爵の妨害をはねのけて、二人は愛を確認し、舞台の初日を終えた時点で彼女は死んでいくのである。
 二人の純粋な愛はすばらしいが、公爵にとっては好きな女性に騙されているのも気づかずに、注意深くではあるがお金を女性にみつごうとしたのはよくわかる。騙されたと知って怒り心頭に達したのもよくわかる。一人の女性を二人の男性が愛して、一方はお金持ちで人物に魅力が亡く、他方は才能があり強い愛を持っている場合、愛は
経済力と葛藤することがよくある。経済力が愛よりも強いということも人間には当然起こりうる。このように経済的なことは非常に重要で、人の愛や命に影響することもある。人は愛や心だけでは生きていけないし、経済力が人を精神的、身体的、物質的にも追いつめる。精神疾患も経済状態と結びついて出現することがある。


■こころ31
日本神話と精神医学31 「色」
 色は人間のライフサイクルにおいて赤ちゃん、青年といわれ、経験の多少によって素人,玄人などのように使われる。交通信号では赤は危険、緑、青は安全、黄色は注意を表す。ピンクはほのかな女性的特徴を、赤ははっきりとした女性性を表しもする。人にとって緑や青は樹木、海、空と関係し安らかな状態を感じさせ、赤・黄は太陽、
日、血など激しいエネルギー、危機を感じさせる。白は無限の可能性や明るさを表し、濃紺・黒は絶望的状況や暗黒を表したりする。
 日本神話では黄泉の国でイザナキがイザナミの屍体を見たときそのおなかにいた「黒雷」、海原を治せと命ぜられたスサノヲが泣く様子を「青山」を枯れ山なす泣き枯らしと描写されたり、因幡の「素兎」、ヤマトタケル東征中に出会ったイブキノヤマでの「白猪」、ヤマタノオロチの目を形容した「赤カガチ」などのように色々色彩
名が使われている。古事記では主に黒、白、赤、青が使われており、これらの色は支那の5行説などを含む思想で使われている色である。すなわち四方(黒房、白房、赤房、青房)、四季、四神(白虎、青龍、朱雀、玄武)と同様である。神話では高天原は白、出雲と海原は赤、黄泉の国は黒、現世・地上は青(青人草)と考えられている。
色はこのように人間の精神構造、社会構造と深く関係している。

―精神疾患一般(12)― 神経症 6 身体表現性障害(1)
 人の心、精神、気持ちは身体の中にあって身体を通じて表現されます。感情や性格も言葉も身体をとうしてしか表現されません。怒りは腹立ちとかおなかが煮えくり返り、不快感や受け付けない出来事はむかつきや吐き気として表現され、素直すぎて何でも受け付けようとしたら消化不良、積極的・攻撃的な人は胃・十二指腸潰瘍になっ
たりします。
 性格について言えば真面目で几帳面で堅苦しい人は身体全体が固く緊張し肩こり、後頭部の痛みが起こりやすい。高慢な人は他人を見下すために背をそらせ人を眼下にみます。臆病で劣等感のある人はおどおどとした態度になり、卑屈な人は身をかがめ上目遣いになったりします。普通気が付かないのですが落ち着いて安定している人はどしっとした態度になります。考えも口や喉をとうして言葉になります。
 ところで人の心は自分でわかっていることはわずかで、自分では分からないことで満ち満ちています。例えば何かをうれしいと感じたときにはそれが何故うれしいのか、いつそのようなことをうれしいと感じるようになったのか、うれしさをどんなときに感じるのか一人一人千差万別であり、その人のそのうれしさはいつ、どこで、どうしてそのような感情になってしまうのか、次から次に問いただすといつかは答えられなくなります。このように人のこころは分けの分からない説明しきれない無意識で満ちています。
 従って種々の明白なストレスだけでなく、自分では気づかないストレスや無理が身体症状になります。例えば真面目という性格は他人にとって評価の高い性格ですが、自分でも納得しているので本人には簡単には気づかれないのですが、真面目と言われれば言われるほどそれだけのこと、言われるだけのことをしています。気づかないうちに頑張りすぎて時には無理が重なったりします。このように本人が知らないうちに無理が重なって元気をなくしたり、疲れたり、ときにはうつになります。このように不快な、つらい無意識の心的出来事は強くなれば身体に表現されてきます。

映画の話しあれこれ13 「フロム・ヘル」
 1888年ヴィクトリア朝末期のロンドンで娼婦や犯罪者がたむろするホワイトチャペル通りで一人の娼婦が殺された。阿片中毒ではあるが、事件の幻覚がみえる有能なアバーライン警部(ジョニー・デップ)は捜査の陣頭指揮をとる。しかしながら次から次に娼婦は無残にも残酷に切り裂かれ内蔵をえぐりとられて殺されていく。娼婦た
ちは解剖学を知ったものでないと出来ない切り裂かれ方であり、内臓の切除のされかたであった。当時のイギリスは少数の豊かなものだけが豊かに生活をして、外国人、ユダヤ人、貧乏人の犯罪が多く、この人たちのうちの屠殺者が疑われた。しかしアバーライン警部は偏見を避け、詳しく調べにかかり、娼婦たちの仲間アンがある金持ちと結婚し子供をもうけたが誘拐されて行方不明であると知る。娼婦の一人メアリー・ケリー(ヘザー・グラハム)は始めは警察を嫌っていたが、アバーライン警部の人情とその妻とおなかの子供二人ともを出産時になくしてしまって阿片中毒になっていたことを知って身近に同情を感じるのである。
 娼婦の死体のそばには高価なブドウの柄が残されていることに気づいたアバーラインは犯人は金持ち以外ないと確信した。さらに王立ロンドン病院所属であり、ヴィクトリア女王の主治医でもあるウイリアム・ガル卿(イアン・ホルム)を尋ねて、犯人は外科医だろうというアドバイスを受ける。メアリー・ケリーとアーバインは誘拐されたアンを追跡するうちにアンを連れ去ったのは公安当局であり、アンの結婚相手はエドワード7世皇太子であることをつきとめた。この事件はただならぬ出来事であると知ったアバーラインは上層部から一時役職を解かれる。しかしアバ-ラインはあきらめずに事件を調べる。死体のあった現場の位置関係、死体の刻み方、現場に残されたコインの置き方から秘密結社フリーメーソンがこの事件に関与していることに気づく。フリーメーソンには上流階級が所属しており、この犯人がエドワード7世皇太子と売春婦との結婚とその子供を隠蔽しようとしたフリーメーソンの一員であり、王室と関係している外科医であると判断した。それは他ならぬウイリアム卿その人であった。最後にメアリー・ケリーがウイリアム卿にねらわれ、間違ってメアリー・ケリーの友人が殺される。アバーラインは好きになりはじめたメアリー・ケリーが生きていてアイルランドに帰ったことを知ってほっとする。やがてヴィクトリア女王もこの事
件がエドワード7世と関連したものであると知って女王と無関係であることを部下に伝える。その結果ウイリアム卿はフリーメーソンの他のメンバーに裁かれロボトミーを受けるのである。
 この映画はこの当時のイギリスの貧富の差、薬物問題、医学、精神病院などの様子も伝えている。精神病院にはロボトミー手術(脳梁切断術)をされた患者が収容されており、アンもウイリアム卿もロボトミーを受けて精神病院に収容されていた。このことから人の権利がかなりないがしろにされていたこともわかる。現在ロボトミーは人の意欲を落とす非人間的な手術であることが分かっているが以前は興奮した患者を大人しくさせる有効な手術と考えられていた。また、阿片も犯罪でなくかなり多くの人間が使っていたようであり、警察の警部ですら阿片をすって幻覚をみているのである。薬を使っていないときにも幻覚をみるのはフラッシュ・バックといい、アバーラインは幻覚を逆手にとって事件を解決するのである。しかしアバーラインは中毒で死亡し中毒の恐ろしさを伝えている。現在社会も色々問題が多いが当時より貧富の差は少ないと感じられた。当時の権力や政府の力は絶大で現在民主主義の警察権力や国家権力とはやや様相が違っているとも感じた。


■こころ32
日本神話と精神医学-32- 「アメノヒボコ」
 記紀においてアメノヒボコはミコトやカミという言葉が付けられていない。ミコトやカミという言葉は神話に登場してくる対象が高天原の神々や天皇と関係してくる時に使われる。すなわちアメノヒボコは新羅の国主の子であり外来の神であることを示唆している。このように日本神話は自国と外国を区別している。アメノヒボコは日光によって身ごもった賤女の子供・赤玉と結婚した。天神系になるには日と姻戚関係になることを要求しており、現在の日本国籍も日本人と結婚して始めて日本国籍が得られることと同じである。赤玉すなわちアカヒルメはアメノヒボコと夫婦喧嘩して難波にやってきたがアメノヒボコはアカヒルメを追って倭の但馬にやってきてタジマモリの祖先となる。夫婦喧嘩して妻が実家に帰り、夫が妻を迎えに行くという今でもありふれたパターンである。アメノヒボコは七つあるいは八つの宝物を携えて妻を迎えに日本にやってきたが昔の日本では8が縁起がよく、外国では7がよく、神話にも色々説が入り交じっているのはおもしろい。 ところでこの話に現れる女の陰部に太陽の光がさして子供を孕むという日光感精型説話はインド・中国・朝鮮各国にもみられるが、太陽と女性の陰部という最も生産的なものが結びついている。さらにアメノヒボコという言葉自身も武器という意味だけでなく、男性器の象徴でもあろう。精神科の患者で意欲が落ち、人間関係の交わりも少なくなり、性欲も落ちてくる人がいるが神話がこういう現象も示唆していると思われる。

―精神疾患一般(13)― 神経症 7 身体表現性障害2 身体化障害
 身体表現性障害には身体化障害、転換性障害、心気症、身体酬形性障害、疼痛性障害などがあります。今回はそのうち身体化障害について述べます。身体化障害は30歳未満に始まり数年間持続して疼痛症状、胃腸症状、性症状、運動・感覚神経系症状などを持ちます。特徴は若い女性に多く、多症状で再発・慢性化し、病気がちの性格であります。そのため外科を受診して手術したりもします。予後はやや悪く、医者と治療同盟をつくることが重要になります。要因として責務を回避したり、苦しい情緒を表出したり、感情や信念を象徴したりすることが考えられます。身体化障害の患者さんは不安定な家庭出身であることが多く、時には虐待を受けたりもしています。患者さんは特徴的注意認知障害をもっており、注意散漫・反復刺激になれにくい・印象的認知・部分的連想なども特徴であります。
 身体化障害は家族の中で蔓延する傾向があり、父親は物質乱用や反社会性人格の傾向があることがあります。具体的な訴えとしては吐き気・嘔吐・嚥下困難・腕足の痛み・過呼吸・健忘などが多いです。簡単にいえば種々のストレスを言葉や運動に発散できずに、さらに父親によって抑え込まれて身体化せざるをえなかったと考えられます。

映画の話しあれこれ14 「ジェヴォーダンの獣」
 18世紀中頃フランス・ジェヴォーダン地方で若い女性が殺され続ける。襲われた人の話による化け物・野獣の正体をつきとめるために、ルイ15世は若き博物学者グレゴワール・デ・フロンサック(サミュエル・ル・ビアン)を送る。彼はアメリカに派遣された時に出会ったホーク族インディアンで兄弟の誓いをたてたマニ(マーク・ダカスコス)と一緒にジェヴォーダンにやってきた。フロンサックはそこで地主貴族の令嬢マリアンヌ・デ・モランジアス(エミリエ・デュケンヌ)と出会い、恋いにおちいる。マリアンヌの兄ジャン・フランソワ・モランジアス(ヴァンサン・カッセル)
は狩猟の名人であったが、狩猟で片腕をなくしていた。惨劇は続きフロンサックは化け物・野獣の正体をあばこうとするが、さすがは博物学者でありみんなが信じている化け物ではないことを確信している。
 兄ジャンは妹マリアンヌを密かに恋いしており嫉妬でマリアンヌとフロンサックを引き離し、フロンサックは謎めいた貴族の娼婦シルビア(モニカ・ベルッチ)に慰められる。ルイ15世は次にボーテルヌ総督を送り、ボーテルヌはただの狼を怪物にして、殺してみせしめにしようとした。しかしその後も化け物・野獣による殺戮が続き、貴族の若者トマとマリアンヌはフロンサックに再び怪物退治に乗り出すよう頼むのである。
 じつはジェヴォーダンの貴族達の一部は現体制に反感をもっており、ある秘密宗教結社を形成していた。ジャンはその一味であり、本当は両手が使えるのである。彼がアフリカで手に入れた子供のライオンを調教し金属製の凶器付きの鎧をライオンに付けていたのである。この獣はジャンの意志に従うのである。ジャンの一味はこの獣を
使って体制批判を目論んでいたのである。この獣との戦いでインディアンマニは戦死した。その後国王の隠密であったシルヴィアの協力で秘密結社のアジトに押し入ったフロンサックは妹に近親相姦的願望をもっていたジャンと戦って勝利をえる。最後にマリアンヌと結ばれて新天地に出発するのである。
 近親相姦は社会的タブーであるが男兄弟の世間の女性に対するコンプレックスが関係している。この映画でもジャンは反社会的・陰険な性格である。ホーク族インデアン・マニは特殊な才能と物質を使って幻覚世界を見ることができて、現実世界のためにそれを利用している。この映画では幻覚惹起物質は使いようでは役に立つと示唆している。精神科患者の幻覚もある意味でも何かを語っているのである。それをとうして現在を知ることもできる。
 最後にこの映画の結末は若き科学者が迷信・迷妄にうち勝ったという側面もある。


■ こころ33
日本神話と精神医学-33- 「不老不死」
 垂仁天皇は三宅の連などの祖タジマモリを常世の国に派遣して「ときじくのかくの木の実」すなわち橘を探させた。タジマモリは常世の国に行ってその木の実を探して「カゲヤカゲ・ホコヤボコ」を持って帰るが天皇は亡くなっていた。その半分を妃のヒバスヒメに与えて、残りは天皇の陵に捧げ、自分は天皇の後を追って死んだ。こんなに古い時代にもかかわらずここは忠という儒教的側面が感じられる。
 不老不死のクスリはいくら探し求めても残念ながら役にたたない。常世の国や不老不死はいつの世のテーマでもあるが人間にとってはいつも夢だけで終わるものである。死ぬのは当たり前なのに不老不死を願うのは多くの人間にとって自然な気持ちである。空想や想像は人間にとって基本的なものだがそれが現実とは違うことを知っておく必要がある。
 中国でも始皇帝が徐福に命じて不老不死のクスリを求めに東方海上の蓬莱山に行かせたという話がある。常世の国とは永遠の世界、不変の世界を意味している。神話では海の彼方と考えられている。海の彼方は遠望したり、行くことが出来ると感じたりするが、いつまでいってもさらに海の彼方はある。
 一方不老不死は不老と不死の意味があわさっているが不死だけでなく不老という若さを保つことも強く意味している。結局不老不死は得られないので仏教では四苦の生老病死から解脱するという信仰が出現している。一方は空想であり、一方は現実直視による悟りであるが人間にはともに難しい。

―精神疾患一般(14)― 神経症 8 身体表現性障害3 転換性障害
 今回は転換生障害について述べます。転換性障害は以前は転換ヒステリーと言われていました。多くの神経症性障害は自分でコントロール出来ない自律神経系の症状として出現するのに対して、この障害はストレス(無意識的なものが多い)が随意にコントロール出来る部分のある運動・感覚神経系の症状として出現します。見たくない・もうこれ以上見ることができないという無意識が心因性失明を引き起こし、聞きたくない、もうこれ以上聞くことが出来ないという無意識が聴覚障害を引き起こします。自信がなく、これ以上しっかりやっていけない時には脱力感、歩行不能を引き起こしたりします。さらに精神的混乱が極度に強いときにはケイレンや後弓反張(体のそり
かえり)も起こしたりします。
 これらの症状は神経内科的・解剖学的には異常のないことや理解できないことがほとんどで、昔は女性に多く、子宮(ウテルス)と関連した病名ヒステリーと言われていました。意志のレベルに影響を与える無意識的ストレスはかなり感情的色彩も強く、一見演技的誇張的に見えますが、本人にはそれが分からず本当に苦しんでいますので、ヒステリーと病名を言うだけで本人のストレスについて相談にのらなかったり、症状を無視したりすると一層症状が悪くなります。転換症状は内科的には異常がなくても真剣に対応する必要があることは言うまでもありません。

映画の話しあれこれ15 「アメリカンサマーストーリー」
 この物語はアメリカの若者(大学生)が長い夏休みをどう過ごすかという、セックス描写の多いコメディである。もちろんテーマは性・愛・友情・個性であるが性描写が多く恥ずかしがり家の日本人にはこのアメリカの大胆な性描写には付いていけないかもしれない。性描写がこれだけストレートに表現されると嫌らしさがなく、結構笑
える映画である。
 主人公のジム(ジェイソン・ビッグズ)はセックスに自信がなくこの夏休みには友人やガールフレンドをとおして自信を回復しようとしている。グループのリーダー的存在のケヴィン(トーマス・イアン・ニコラス)は高校時代のガールフレンドともう一度付き合いたいと願っている。フィンチ(エディ・ケイ・トーマス)はインドの性的宗教のタントラの信棒者であり、友人の母との最高のセックスを常に求めている。真面目な青年オズ(クリス・クライン)は大学で知り合った1人の女性ヘザー(ミーナ・スバーリ)との恋愛を大事に続けているが、彼女が別荘でのヴァカンスに来るのが遅れるのでオズは友人との付き合いを楽しむ。もう1人のスティフラー(ショーン・ウイリアム・スコット)はええ加減な性欲・大騒ぎだけの人間であるが、友人付き合いは大好きである。
 この5人が夏休みを海辺の別荘でパーティーを開きながら自分・友人・性欲・恋愛をどう経験し自分のものとしていくかというコメディであるが、ジムは大学時代のガールフレンドナディア(シャノン・エリザベス)と上手くセックスをしたいが自信がなく高校時代のガールフレンド・ミッシェル(アリソン・ハニガン)に性のアドヴァイスをしてもらうが結局は性的魅力のあるナディアよりミッシェルのやさしさに気付くことになる。オズはある1人の女性ヘザーを愛し続けていて、テレフォンセックスなど2人の性の楽しさも描かれているがその1人の女性を愛し続ける。このヴァカンスでケヴィンは高校時代の彼女に振られて、ショックを受けるが友人に支えられてその女性との友人関係を大事にするようになる。アメリカらしい開放的男女関係のため、男女関係にも友人関係が成立するのであろう。個性的なフィンチは友人スティフラーのママとの関係を最後には持つことが出来てマイペースを貫いている。
 もう1人の登場人物ジムのパパ(ユージン・レヴィ)はどこか面白いとぼけた人物で、息子のことが非常に大事で何でも分かろうとし、許してしまう。性もおおっぴらに許し、どんなどじな息子でも息子が負けずに立ち上がるのに協力する人である。この関わりが甘やかしにならずに、ジムがパパを愛しているところが面白い。
 この映画はアメリカの開放的な性を描きながらも友情・真の愛情・人間の成長・家族などをコメディにも拘わらず描けているところがいい。他に笑える場面はいくつもあった。


■ こころ34
日本神話と精神医学-34- 「国譲り」
 オオナムチは高天原の神々に葦原中津国を譲るが、高天原の3度目の使者タケミカズチとアメノトリフネと直接交渉しないで自分の子供のタケミナカタとコトシロヌシに交渉を任せてしまう。その後オオナムチは国を譲ったあと出雲大社に鎮座してしまう。このようにこの国の権力者は前面に立たずに配下のものと交渉させその結果、あまり抵抗なく権力を譲ることはこの国の歴史上何度か同じ様な出来事がみられる。徳川慶喜が明治政権に大政奉還したとき、日本がアメリカに負けて日本国に変わったとき、源平の武士政権が朝廷から権限を譲り受けたときなどまさに国譲りに近いと思われる。日本では天皇が昔から象徴的存在であったため権力の前面に出ずに配下のものが権力交渉をして、その結果や形式を重んじて権力を譲る一方象徴的な形で影響を残す傾向があり、この神話にもそれが表れている。権力者も配下のものもお互い同志の立場を理解し交渉を決定する傾向がある。この決定方式の悪い面は責任の所在が不明になることである。家庭の教育においても全面的に責任をとらない表現で、世間とか警察に言及することとも関係しているであろう。色々な態度・行動の責任・権利関係や因果関係をはっきりさせずにまわりの意見をきいて態度をきめる構造もこれと関係し日本人が論理性に弱いこととも関係しているであろう。

―精神疾患一般(15)― 神経症 9 身体表現性障害4 疼痛性障害
 心理的に痛みは本人にとって苦しい出来事を別の表現として転化したものであることがあります。すなわち体のある部位に痛みを感じることによって本当の苦しみ、痛みが目立たなくなることがあります。類似疾患にはヒポコンドリーの一種ともいえますが、肋骨の下方、季肋下(ヒポコンドリー)に痛みを訴える場合があります。昔、
持病の癪と言われていたものの一部がふくまれるでしょう。特に内科的・外科的には疾患が顕著でないにもかかわらず強い痛みを訴えてなかなか治らない疾患です。
 痛みの部位は季肋下に限らず全身のどの部位にもおこります。かなりの痛みを伴う胆道ジスキネジアは胆道の収縮異常による疾患ですが、原因がはっきりしない場合もありその痛みのため手術されることもありそれでも治らないことがあり、疼痛性障害の場合もあると思われます。ブリケット症候群といって内臓の痛みで手術を何回も受
けそれでも治らないこともあります。疼痛性障害の場合もありますので手術をする前に心理的要因も考える必要があるでしょう。
 ほかの精神疾患と同様に精神は身体の中にあり身体に表現されることも多く、苦悩や心の痛みは当然体の痛みとして表現されることがあります。どの部位や臓器に表現されるかは個人や心理的痛みの種類によって変わりますが、頭の痛いことがあると頭痛がおこり、腹が煮えくり返ると腹痛が起こったりします。胸の苦しみは胸痛になり、心の痛み・心痛は心臓部位の痛みになったりします。痛み入ると言う言葉があるように自分の負い目を感じるときにも痛みが感じられるようです。

映画の話しあれこれ16 「光の旅人」
 プロート(ケビン・スペイシー)はグランド・セントラル駅ですりの疑いをかけられて警察に収容されるが、自分はK-PAX星人であるといったため精神病院に送られてくる。
 その病院の精神科部長マーク・パウエル(ジェフ・ブリッジス)は最初は彼の言動が明らかに妄想であると判断するが、その言動は奇妙にも理路整然としており、説得力があると思うようになる。さらに宇宙についても天文学者が舌を巻くような知識を持っているのである。プロートに処方した強い薬もまったく効かずパウエルは自分の診断にますます自信をなくしていく。精神病院の他患への影響力も大きく疾病恐怖のアーニー(ソール・ウイリアムズ)を治す働きをして、パウエルはプロートがひょっとしたらK-PAX星人ではないのかと思うようになる。しかしパウエルは精神科医として彼がK-PAX星人にならざるを得なかった理由があるかもしれないと思って、半ば強
制的に催眠分析を受けさせその時の断片的言葉と、もともと彼は7月27日にK-PAXに帰ると言っていたことから、彼が7月27日に妻子を浮浪者に殺され自殺をはかった人物であることが分かる。
 7月27日にプロートはK-PAXに帰るといっていたのでパウエルはその日の夜0時に彼が消えるのを確かめたいと思った。しかし寝過ごしてしまってプロートが消える瞬間をみることが出来なかった。しかし彼の病室には記憶をなくした男がいたのである。これはプロートがK-PAX星人であり、妻子を殺された男に乗り移っていたとも考えられる。 K-PAXには殺人などはなく、独占欲・家族もなく地球人の所有欲・家族・恋愛などからくる苦しみもないことを伝えている。仏教の悟りに近い精神であり、現代人への警告でもあろう。精神疾患の症状もこのような現代人への警告という意味があることがある。


■ こころ35
日本神話と精神医学-35- 「ホノニニギ」
 ホノニニギはアマテラスにより天孫降臨を命じられる。ホノニニギという言葉は稲穂がにぎわう、にぎやかという意味を持ち、稲の豊饒を約束する。ホノニニギの父がオシホミミで子がホホデミであり、ともに稲・火と深い関係を持つ。ホノニニギはコノハナサクヤヒメ別名アタツヒメ(九州の地名)と結婚し一夜でホホデミ別名ホオリ(山幸彦)を産む。ホノニニギは葦原中津国の最初の王であり、神武天皇の曾祖父でもある。天皇家と高天原・天神を結びつける神である。ホノニニギに関する神話は、王が別の世界の女性と結婚して別の世界の豊かさを収奪して繁栄するということを示唆している。高天原・天神は何度かの失敗ののち国譲りを成功させたのち降臨させたこと、ホノノニギはマトコオフフスマにくるまれて降臨したことなどを含めて降臨神話は王権に神聖性・始原性を与えている。次に続くホホデミ(山幸彦)、ウガヤフキアエズ(ワニの子)などの神聖性・始原性を感じさせる話のあとにカムヤマトイワレヒコ(神武天皇)が生まれ天皇家に神聖性を感じさせている。
 人の精神についても、混沌とした背景から自我が確立してくるのは幼児期のコンプレックスを処理し、他者からの種々の経験(心理的栄養)を得た結果である。王権の背後に暴力的装置があるのと同様に自我の背景(超自我、エス)にも暴力的、性的部分が無意識裏に隠されている。

―精神疾患一般(14)― 神経症 10 身体表現性障害5 心気症
 症状が疼痛に偏らず種々の身体症状として表れ、重篤な病気であることへの恐怖が非常に強くなるものであります。もちろん痛みを伴ったり、種々の自律神経症状例えば頭痛、吐き気、めまい、ふるえ、動悸などの不定愁訴も多いです。このような症状のため、医学的検査で問題がないと判断されても検査にひっかからない重篤な病気をつい考えてしまいます。これらの症状は性格・ストレスと関連して症状が繰り返される傾向があります。うつの場合も心気症状が時々おこり、自分はもう駄目だという自責的観念、自己批判が当然自分の身体の痛み、苦痛として表現されたものと考えられます。これらの症状はストレスが身体から発散されず、重篤な病気への恐怖がますます身体症状へのこだわりを生み、それがますます症状を強くして心身交互作用の悪循環を作っている可能性があります。身体への完璧主義ともいえる強迫的こだわりと考えられて、うつ病や強迫障害とも深く関係しています。

映画の話しあれこれ17 「アザーズ」
 第2次世界大戦末期の英国ジャージー島に暮らすグレース(ニコール・キッドマン)と幼い娘アン、息子ニコラスは夫であり子供達の父親チャールズ(クリストファー・エクルストン)の帰りを待っている。彼は前線に行ったきり帰ってこないのである。3人の使用人がいなくなったので募集したところミセス・ミルズ(フィオヌラ・フラナガン)、言葉のしゃべれないリディ、庭師のミスター・タトル(エリック・サイクス)がやってきて使用人になる。
 グレースの子供達は日光過敏症でいつも部屋を閉めきらなければならなかった。使用人達はカーテンを閉め、ドアを出入りする度にかぎを閉めなければならなかったのである。ある日グレースは使用人を募集をしたが、広告が出来てないうちに使用人が家にくるのはおかしいと言ったが、使用人たちは以前雇ってもらっていた家なので飛び込みできたと弁解する。
 この後、家のなかで奇妙なことがおこるのである。他に誰もいないのに歩く物音がしたり、ピアノの音が聞こえたりする。娘アンは誰かがいると言い張り、グレースは混乱して使用人を疑うのである。グレースは家中を調べるうちに一冊のアルバムをみつけた。そのなかには死人達が正装されて写されてあった。使用人達を疑ううち町に出て牧師の所に行こうとするが霧が深く道に迷いそうなところで帰って来た夫と出会う。グレースはやっと安心して再び以前のような生活ができると思ったにも拘わらず、夫が何故かまた出ていくのである。そしてますます他者がいるかのような異様な出来事が続き、使用人達を怪しんだ子供達はそとに出て調べるうち、使用人達の墓がみつ
かるのである。グレースは子供達のいなくなったのに気づき子供達が使用人達を恐れているのを知って子供達を連れて家に逃げ帰るのである。
 ここで真実が明かされるのである。グレース達も死人として写真に写っていたのである。グレースは夫が帰らないと言う状況下で病気の子供2人を抱えて精神的混乱を起こして子供達と無理心中していたのである。従って家の中で聞こえていた他人の気配は時々この家を買うために見学に来ていた人たちだったのである。逆にグレース達が亡霊であったのである。最後のどんでん返しは人を常に驚かす。


■こころ36
日本神話と精神医学-36- 「ヤマトヒメ」
 垂仁天皇の皇女であり、アマテラスの鎮座地を決めた人物である。伊勢に祠をたて、斎宮を五十鈴川の川上におこした。また景行天皇の妹であり、ヤマトタケルの叔母としてタケルの西征の折りには自分の衣裳を授け、東征の折りには草薙の剣と火打ち石の入った袋を授けた。ヤマトヒメは日本神話の最高神アマテラスの斎宮(神に仕える独身女性)であり、ヤマトタケルによる国土平定の成功を手助けした。また名前にもヤマトが使われていて、日本と深く結びついている。ヤマトヒメのように神のために独身を通し、男性を守護する女性は日本女性の潜在的な原型をしめしているかもしれない。外で頑張っている男性に対してしっかり家を守っている女性を象徴しているよ
うにもみえる。男女共同参画的立場にたてば外に向かって組織を拡張しようとする男性に対し、現在ある組織を固める役割といえるかもしれない。迷った男性を予見によって導く役割であるかもしれない。精神医学的には自我のよってたつ太母的側面もある。

―精神疾患一般(15)― 神経症 11 解離性障害1
 人は自我という統合の中心を持ち、意識・無意識が自己・人格という形に統一された存在です。解離性障害は人格の統一の障害です。解離と違って抑圧の場合は不快な心的現象が意識下に水平面下に潜ってしまう。一方解離は矛盾した葛藤した意識が縦に裂けた状態です。分裂は(自己・意識)・意識下の心的現象が断片化し、境界例障害の場合の分裂(スプリット)は無意識や感情などが断片化します。それに対して解離は自己・意識が縦に裂けることです。
 自己が意識とともに裂けるすなわち解離する時には神経症とは異なる多重人格障害がおこり、不快な葛藤した意識が裂けたら解離性健忘すなわち心因性健忘(俗にいう記憶喪失)がおこります。ところで催眠も一種の解離現象といえます。さらに心や体が現実感覚からずれる離人症という解離性障害もあります。
 簡単に言えば解離は垂直方向に意識や自己が裂けることといえます。幼児期の心的外傷が解離性障害と関係していると言われています。父親と面と向かう私が性的虐待などを受けると母やその他の人物との関わりで形成されてきた私と一致しなくなり私や私の意識が裂けるということは充分考えられます。

映画の話しあれこれ18 「模倣犯」
 豆腐屋の有馬義男(山崎努)の孫娘が突然消え、別の事件で家族を殺され独りぼっちになった青年によって切断された右腕が発見される。TVやマスコミが事件を大々的に報じている時に特殊な装置で声を変えた電話がかかり、腕と現場にあったバッグは別々の女性のものであると伝える。テレビ番組に犯人は何度も電話をかけてきて事件を楽しんでいるようだった。そんな時に犯人からインターネットで殺人ライヴをするという連絡がはいり、日本中がそのメディアに釘付けになる。ちょうどその時間に二人の男を乗せた自動車ががけから転落し、トランクの中からもこの事件の第一発見者の青年のことをルポしたライター前田滋子(木村佳乃)の夫の死体が発見される。
車を運転していた男たちは栗橋浩美(津田寛治)と高井和明(藤井隆)で栗橋の部屋から事件に関する大量の証拠が発見され栗橋と高井がマスコミによって犯人と断定された。それに対して栗橋と高井の小学時代の同級生で犯罪心理学者の網川浩一(中居正広)がマスコミに登場して真犯人の存在を主張して、日本中が網川に魅了されていく。
 しかし孫を失った有馬と夫を亡くした前畑は何か腑に落ちないもの感じて事件を調べるうちに、網川と栗橋が一緒に有馬の家の前を歩いていたこと、高井が罪を犯せない人物であること、網川と栗橋が女性を連れ去ろうとしたことを嗅ぎ出し網川が犯人でないかと疑う。やがて網川の別荘が犯罪を行った場所だと分かる。最後にテレビで
前畑と網川が対決し、網川は殺人を感情を交えず頭で考えてやったこと、殺人をデジタル世界でショウ化したことを告白し、自害する。
 人と感情的に付き合えず、人の気持ちを感じない人間は精神医学で情性欠如人格という。冷たく笑って感情が動揺することなく人を殺してしまったりする。主人公網川もまさにこんなタイプである。最近テレビ、マスコミ、インターネットは視聴覚中心の世界であり、五感を使った生の人間関係ではなくAV(オーディオ・ヴィジュアル)
的人間関係が優位にたち常識(コモンセンス・共通感覚)が常識でなくなりつつある。これは偏った人間関係であり世界である。網川の愛情に恵まれなかった生い立ちとAV的世界ならこんな精神世界も生まれるだろう。


■こころ37
日本神話と精神医学-37- 「浦島型伝説」
 浦島太郎の話のように主人公がこの世とは違った異郷に行き歓待あるいは試練などの異郷体験をして人間社会に戻ってくる話は日本神話のなかにもいくつかある。
 オオナムチがスサノヲの住む根の堅洲国に行き数々の試練を乗り越えてスセリヒメとともに生太刀、生弓矢、天の沼琴を手に入れて中津国に戻る話。山幸彦が海神の国に行って歓待を受け、トヨタマヒメと塩満珠、塩乾珠を得て中津国の支配者となる話。タジマモリが常世の国に行きトキジクノカクノ木の実を得て戻ってくる話などがある。
 オオナムチや山幸彦は異郷を訪問してこの世の成功を手に入れるがタジマモリや浦島は戻ってきたこの世の厳しさに直面する。
 人の心において新しい、珍しい、未知の体験は自分自身を深めるはずだが、未知の体験を今の自分の状況に組み込めない時は疎外されてしまう。人が経験を通して大きくなるにしろ、崩れるにしろ心の成長、発展、深化は未知の体験をして始めて可能になる。未知の体験は心の発展にとって必要であり、重要だが必ずしもうまく処理出来るとは限らないと神話は語っているのだろう。オオナムチや山幸彦のように未知の体験をしてこの世での成功を得られるか、逆に失敗をするかもしれないが心の安定感・達成感を得るためには未知の体験が必要不可欠であると物語っているのだろう。
 そのためには失敗、混乱は取り返しできるという確信・信念が大事であろう。

―精神疾患一般(16)― 神経症 12 解離性健忘
 健忘はほとんどすべての解離性障害におこる一般的な症状である。別に心因性健忘とか記憶喪失とか言われている。個人の同一性についての健忘であるが一般の記憶の欠損はない。すなわち名前・年齢・家族・住所・学校・会社などは忘れてしまうが言葉・生活習慣・獲得した技術などを忘れるわけではない。痴呆の場合のように自分の名前・家族のことは覚えているのに一般的な言葉、意味などを忘れてしまうのと好対照である。解離性健忘は男性より女性に多く、高齢者より若者に多い。ストレス、心的外傷、戦争・災害下で発生しやすい。記憶作用は海馬が中心的役割を担っており、ストレスや心的外傷が海馬に影響して想起を不可能にしていると考えられている。ふつう人は学習・記憶するときの周りの状況に依存して記憶している(エピソード記憶)。従ってストレス・心的外傷下での出来事はめったに起こらないものであればあるほど余計に思い出せないと言える。
 精神分析理論では思い出したくないこと、考えたくないこと、見たり・聞いたりしたくないことは抑圧されて思い出さなくなると考えられている。解離性健忘の患者は自分の記憶を失ったことに多くは無関心であり、無頓着である。
 健忘のタイプには限局性(短期間の出来事)、全般的(経験した生活史すべて)、選択的(特定の出来事)の3つがある。健忘を起こすことによって苦痛に満ちた出来事を思い出さなくなるとか不快なことをしなくてすむという疾病利得もある。
 区別すべき疾患には痴呆、せん妄、てんかん、睡眠時遊行症、意識障害、一過性全健忘(脳虚血発作)などがある。

映画の話しあれこれ19 「タイムマシン」
 19世紀末ニューヨーク。若き物理教授アレクサンダー・ハーデケン(ガイ・ピアース)にとって今日は特別の日であった。恋人エマ(シエナ・ギロリー)とデートをして婚約指輪を手渡したのである。ちょうどそのとき木陰から現れた強盗にエマを殺されてしまう。失意のハーデケンは恋人エマに再会し、過去を変えてエマと結婚するべくタイムマシンを造ろうと決心した。数年間世間と隔絶した生活を送りある日タイムマシンを完成する。ハーデケンはタイムマシンに乗ってエマの殺される直前に時をさかのぼりエマを救おうとするが、今度はエマは馬車にひかれて死んでしまう。しかしどうしても過去をかえれないことに納得できず、時の秘密を知るために未来に向かうのである。2030年のニューヨーク、文明は進歩して人類は月への移住をするようになっていた。その時代の科学博物館に行ってプログラムされたホログラム案内者に時間の秘密を問いただすが答えは得られない。さらに7年後に飛ぶと人類によって月が変形され、地球に巨大隕石がふりそそぎ人類滅亡の寸前であった。さらに未来に行こうとするがこの天変地異によりハーデケンはタイムマシンにのって意識を失いそのまま80万年後の世界にたどり着く。そこには信じられないことに2種類の人類の子孫がいて1種類は地上での原始生活を送る人類(イーロイ族)、もう1種類は地下にもぐり地上の人類を食用にする人類(モーロック族)に分かれていた。ハーデケンはイーロイ族の女性マーラ(サマンサ・バンバ)に助けられるがそのマーラがモーロック族に連れ去られる。ハーデケンはマーラを助けるべく地下世界に降り立つがモーロックの指導者につかまり19世紀にもどされようするが、ハーデケンは抵抗して殺される寸前のところでタイムマシンを犠牲にし、利用して地下世界を爆破させる。マーラを助けたハーデケンは19世紀にはもう戻れず、マーラらと共に生きようとする。
 タイムマシンは空想上の機械であるがこの映画で描かれた未来は人類がほとんど滅亡し残った人類が悪と正義にわかれてしまっている。このテーマは統合失調症(精神分裂病)の症状によく見られる、世界が没落し滅亡するという症状と関連している。すなわち患者と同様に先々の不安を人類は抱えている。同時にこの映画では通常のテーマと同様正が悪をやっつける。これによって人類の将来の不安は避けられる。従って統合失調症の患者に必要なことはひとつのはっきりした正悪などの確信・信念であろう。


■ こころ38
日本神話と精神医学-38-  「母子固着」
 垂仁天皇が后のサホビメの膝枕で寝ている間に「サホの方より暴風雨が来て私の顔をぬらした。さらに錦色のヘビが私の首にまとわりついた」夢を見た。この夢を天皇が語った時にサホビメの手の中に紐のついた小刀があった。サホビメはこの時兄に命じられて天皇を殺そうとして、3度手を振りかざしたが天皇を殺すことが出来ずに天
皇の顔の上に涙を流したのである。この夢ではヘビが剣の象徴になっている。さらにサホビメの涙が大雨になり、剣がヘビになったことはサホヒメが大雨、ヘビと関係しさらには龍神・水神と関係していることが想像される。
 サホビコの謀反を知った天皇はサホビコを討伐することになる。サホビメは兄を思って兄の城に入り、その城で天皇の子ホムチワケを生んだ後、兄とともに焼け死ぬがホムチワケのみが助かる。このホムチワケは八拳須心前(ヤツカヒゲムナサキ)に至るまで言葉をしゃべらなかった。亡き母を思い慕った結果喋ることが出来なかったとい
う亡き母との心理的固着を表している。さらに喋ることが出来るようになってのち肥長姫(ナガはヘビ)と婚ったときにヒナガヒメがオロチであるのをみて逃げてしまう。母・ヘビとの関連が結婚にまで影響している。このように母子固着は積極性のなさ、勇気のなさ、無力性と結びつくことがある。
 母子固着と言えばスサノヲが亡きイザナキを求めて八拳須心前に至るまで啼きいさちって父に追放される。スサノヲが根の国に行く前にアマテラスに報告するために高天原に立ち寄る。そこでスサノヲはアマテラスに甘えて乱暴・狼藉の限りを尽くす。このように母子固着は甘えから暴力・破壊行為なども引き起こす。
 亡き母(本人が求めても得られない母親像)に影響され大人になれないわけだが、人間は明らかに理想の母親との心理的固着を切って、現実の母親と対面して成長するが、固着を切れないとこの段階のホムチワケやスサノヲのように大人になりきれず勇気・やる気のなさや乱暴という未熟な行為・症状が見られる。

―精神疾患一般(17)―  神経症 13 解離性遁走
 以前は心因性遁走とも呼ばれていた解離性遁走は健忘をともなうが、その間の行動は目的にかなっていて統合されている。解離性遁走の患者は家庭や職場から遠ざかり本来のアイデンティティを忘れてしまっていて新しいアイデンティティのようなものが出現するが別の人格にはなりきれないし、解離性人格障害のように交代可能でもない。アルコールによる病的酩酊でもおこるが、気分障害や人格障害の人におこりやすい。解離性健忘と違って自分が忘れていることに気づかないのが特徴であり、元の自分に戻ったときには遁走期間のことはおぼえていない。解離性遁走の患者の遁走期間中は平静を保っており、平凡で目立たず、単純な仕事をしていることも多い。
 遁走は結婚、経済問題、仕事、戦争などの心理的原因で起こり、持続が短く数日以内で自発的に回復し再発は少ない。
 痴呆やせん妄による徘徊は目的がなく社会的適応行動がとれないことで鑑別できる。複雑部分てんかんでは新しい同一性のようなものは獲得しない。解離性健忘は目的にかなった行動や新しい同一性のようなものを示さない。

映画の話しあれこれ20 「トータル・フィアーズ」
 現代世界はソ連が崩壊し共産主義と資本主義の対立は目立たなくなり民族主義が台頭してきている。民族主義、国粋主義、宗教などが混じり不確定要素が多くなり、複雑な様相を呈している。
 最近ロシアはネメロフ大統領(シアラン・ハインズ)にかわり、アメリカはまだそのひととなりが分からないでいる。ネメロフが次期大統領になると予想していたCIAのライアン(ベン・アフレック)はCIA長官ウィリアム・キャボット(モーガン・フリーマン)に引き立てられる。ネメロフが大統領になってまもなくチェチェンがロシアによって毒ガス攻撃される。ライアンは大統領や高官たちの前でネメロフの指示ではないと断言するが、ネメロフはマスコミに自分の指示だと表明しライアンは信用を失う。実はロシア将軍たちの勝手な行動でありライアンが正しかったのだがネメロフは自分の権威が揺らぐことをおそれて自分の指示だと言い張ったのである。
 それにも関わらずキャボットはライアンを信頼しロシアの核査察にも随行させた。ライアンはある核施設の研究員3人が行方不明なのを知り工作員ジョン・クラーク(リーヴ・シュライバー)とともにその行方を追う。その結果オーストリアの富豪でネオナチのドレスラー(アラン・ベイツ)がアメリカの世界支配に対抗するため、アメリカで核爆発を起こし、米・ロを戦わして漁夫の利を得て世界支配をしようとしているのをライアンは嗅ぎつける。ドレスラーは第4次中東戦争時アメリカから譲られたイスラエルの核がゴラン高原に不発弾として眠っていたのを手にいれたのである。
 ライアンがアメリカ・ボルチモアで核を爆破させるという情報を手に入れたがとき遅く、キャボットとファウラー大統領(ジェイムズ・クロムウェル)はボルチモアでアメリカン・フットボールを観戦中であった。ライアンからキャボットへの部分的報告で大統領一行はかろうじて現場を逃げだし大統領は一命をとりとめたがキャボットは命を落とす。エアーフォースワンのなかで大統領たちはロシアの陰謀であると疑いロシアに核攻撃をしようとし、一方ロシアもアメリカの意図を見抜きアメリカに核攻撃をしようとして世界破滅の危機がせまる。ライアンはファウラー大統領に核爆発はロシアの陰謀ではないと伝えようとするがチェチェン問題での信用低下もありライアンの報告は取り上げられなかった。ライアンは最後の手段でペンタゴンに強行しホットラインでネメロフ大統領に直接働きかけネメロフの陰謀ではなくドレスラーたちの陰謀でありネメロフが核を使えば手を汚すことになるといって説得し、ネメロフはアメリカ攻撃を中止するのである。その反応をみてファウラーも核攻撃を中止し、核戦争は避けられる。情報が少ない中、お互いの不信と恐怖をベースに意地の張り合いが取り返しのつかない結果になるのは国家でも個人でも同様である。情報を出来るだけ早く交換しコミュニケーションをはかるのが国家や個人の安定につながるのである。


■ こころ39
日本神話と精神医学-39- 「異類婚」
 歴史以前から人間は自然現象・生物に畏怖や感謝などを感じてきた。太陽、熊、蛇、狼、ワニ(さめ)などに畏怖を感じて自分達の祖先であると思ってその庇護を望んだり、それらに対する恐怖を和らげたりしてきた。日本神話のなかにも英雄が異類を母にして共同体で活躍する話がある。
 針を求めて海にやってきた山幸彦すなわちホヲリが海神の娘トヨタマビメと結婚し、地上に戻るがトヨタマビメも夫を追ってくる。出産にさいして夫に自分を見ないようにと言ったにもかかわらず、夫が垣間見るとワニの姿で出産していた。恥をかいたトヨタマビメは子供をおいて、海坂を遮って国に帰ってしまった。その子がウガヤフキ
アエズであり、神武天皇の父である。
 さらに神武天皇の大后であるヒメタタライスケヨリヒメは三輪山の主で蛇神のオオモノヌシのむすめである。このように天皇家はワニや蛇の血が混じることによって国家への支配力を強めるのである。皇女のヤマトトビモモソヒメが異類のオオモノヌシの妻になったりして天皇家が支配を維持するために特異性・超越性を語っていると思
われる。
 同じように社会で飛び抜けた活躍をするためには人格的偏りもやむを得ない一面があるかもしれない。

精神疾患一般18 神経症14 離人症
 自分の精神が身体から離れて外部の傍観者のように感じたり、自分の身体が異物のように感じられ大きくあるいは小さく感じられたりする。自分が見たり聞いたりしていても実感がわかないと訴えたり、相手の気持ちや自分の心がピンと感じない、生きているという実感がないというのが離人症の特徴です。外界と自分の間にヴェールが
張ってあるとも訴えます。現実認識はしっかり出来ているが、この苦痛は社会的職業的障害を引き起こしている。うつ病や統合失調症でも起こってくるのでこれらの疾患を除外する必要がある。15ー30歳位の発症が多く、比較的長期の経過をたどるこの症状は精神的ストレスがなくなった直後の虚脱状態のときに起こりやすい。ときに過呼吸発作のあとおこることもある。治療は対照的に安定剤でなされることが多い。
 この疾病は自分の精神状態がしっくり身体に対応せずに精神と身体が解離するという解離障害のひとつである。精神は身体にやどるがそのやどりかたは固定的ではなく常に病的に変化するのである。まさにずれるという表現があてはまると思われる。

映画の話しあれこれ21 「インソムニア(不眠症)」
 アラスカのある町で17歳の少女が殺される。猟奇殺人を得意とする警部ウィル・ドーマー(アル・パチーノ)と相棒のハップ(マーティン・ドノバン)が応援にやってくる。実は2人は仕事上の権力乱用について内務省の調査をうけているのだが、罪を認めようとするハップとウィルは対立しているのである。
 ウィルが事件を担当するようになって地元警察が見落としていた事実が次から次に発見される。遺体の髪のシャンプーの香りや手と足の爪を切りそろえてあったことから、自分の痕跡を消そうとしていることが分かった。これから顔見知りであることが想像されたのである。さらに彼女の部屋にはデザイナーのブランドがあり秘密のスポ
ンサーがいると思われた。また幸運にも事件当日の彼女のバッグが発見され彼女からは想像できないミステリーの本などが見つかった。
 ウィルは罠をかけようとしてバッグを発見場所にもどしテレビで警察がバッグを探していることを放映した。目論見どうり犯人がやってきたが、運が悪く深い霧がたちこめ、逃げ道の多い場所であった。犯人は銃を使ったので、応戦しているときに誤ってあるいは無意識のうちにウィルはハップを撃って殺してしまう。こののちウィルはこの失敗をゆるせずあるいは無意識の意図のため、犯人がハップを撃ったことにしてしまう。この事故をウィルにあこがれていた女性刑事エリー(ヒラリー・スワンク)がまとめることになったが徐々にハップを撃ったのは本当に犯人なのかという疑問が膨らんでいくのである。
 白夜のアラスカで、良心の呵責によりウイルはその日から不眠になり、感覚さらには精神が混乱していくのである。ある眠れない夜にウィルは犯人であり、ミステリー小説家ウオルター・フィンチ(ロビン・ウイリアムズ)から電話を受け「殺人をおこして眠れないだろう、僕もそうだ」といTELを受け取る。フィンチは殺した彼女の恋人を殺人者にしようといってくるが、ウィルは自分が罪にならずに、フィンチのみを殺人者にするべくピストルをフィンチの家に隠したりするが、フィンチも上手で彼女の恋人をますます殺人者にしたてていく。
 一方エリーも内務省の調査でウィルとハップ2人がもめていることや、ピストルの口径、撃った角度などからウイルがハップを撃ったと確信してくる。エリーが相当核心をついてきたことをしったフィンチはエリーと会い殺そうとするが、最後にウイルは良心の力でハップと撃ち合って相死にするのである。
 白夜という物理条件・ストレスに加えてこれだけの心理的ストレスが加わって不眠にならない人はいないであろう。不眠が何日も続けば当然その人特有の精神障害を引き起こすということもあたりまえである。この映画は不眠のときの精神症状をかなり的確に描いていると思う。


■ こころ40
日本神話と精神医学-40- 「国巣(クズ)」
 神武天皇の大和入りの時、吉野河河尻で鵜飼氏、吉野の首に続いて登場する。尾ある人と書かれていて、巌を押し分けて神武天皇の前に出現し名前を国神の石押分の子といった。

 応神天皇の時、国巣の性質が淳朴で山果を食し、蛙を煮てもみと呼んで食している、吉野の川上に住んでいると書かれている。別名ツチクモ、ヤツカハギ、キツヒコ、キツヒメなどとも言われ、大和政権への抵抗勢力として描かれている。大和政権に抵抗するものはクズ、クモ、ハギなどややさげすみを含んだ名称で呼ばれるのは世界中のどのような物語にも使われる常套手段である。逆にいうとどのような政権も反対勢力、敵対勢力を人間と見なさない一方支配者としての自分達を神に近づけていく傾向がある。国家的善悪という価値観は本当に難しいが背景に権力がいることは知っておく必要がある。精神疾患も秩序や支配からみてまつろわぬ状態という一面がある。

―精神疾患一般(19)― 神経症 15 解離性同一性障害
 一般的には多重人格障害として知られている慢性の解離性障害である。子供のころの身体的・性的虐待が原因の時がある。解離性同一性障害は解離性障害のなかでももっとも重篤であるが軽い場合もある。発生頻度は比較的少ないが女性がかなり多い。この障害には不安障害、気分障害、身体化障害、摂食障害、PTSDなどを合併し自殺傾向がみられる。この障害患者はしばしば人格障害(境界例)、統合失調症、そううつ病などと間違われる。特徴としては2つ以上のはっきりと区別できる同一性をもち、これらの人格が交互に反復し、重要な物忘れも多い。1つの人格から別の人格に突然・劇的に変化し、1つの人格は別の人格の事を思い出さない。しかしある人格が別の人格を記憶していることもある。人格に序列が付いている事もあり、通常幼児人格が一番従属的人格である。それぞれの人格には共通点がなく、人格の切り替わりがまれであることも多い。ほかの解離性障害と違って自己同一性(そのひととなり、人格)の変化が特徴である。また解離性障害の発症が早ければ早い程重篤である。さらに予後は人格の数、人格の型、人格の根深さと関係している。

映画の話しあれこれ22 「阿弥陀堂だより」
 東京にすむ売れない作家上田孝夫(寺尾聡)と優秀な女医(樋口可南子)の夫婦が夫の故郷信州に転居してきた。美智子は大学病院で先端医療に携わってきたが、ある時妊娠したにも拘わらず流産してしまう。その後パニック障害になった美智子は東京では芽のでない孝夫に誘われて信州に移ることを決意したのである。山里の美しい村に帰ってきた2人は阿弥陀堂という村の死者がまつられるお堂に暮らしているお梅(北林谷栄)を訪ねる。お梅は90代であり、その生き方は非常に素朴である。
 村は無医村であり、医師を待望していた所に美智子がやってきて村あげて歓迎する。美智子はパニック発作を持っているので診療は2日に1回で許してもらった。一方孝夫は村の広報誌を配ったり、阿弥陀堂のお梅の世話をしたりしていて、阿弥陀堂に何回か行っているうちに喉の病気の結果言葉の喋れない小百合に出会い、小百合は村の広報に、阿弥陀堂便りというお梅の感じたことを書き留め記事にしたものをのせていた。

 ある日孝夫は恩師の幸田(田村高広)の所にあいさつにいくが幸田はガンに侵されながらも死期を潔く迎えようとしていた。そんな時小百合の病状が悪化しているのを美智子が見つける。小百合は町の病院で治療を受ける。美智子は小百合を助けてやりたいが、パニック障害以後病院で患者を診ていく自信を失っている。しかし孝夫にすすめられて小百合の治療を若い主治医と一緒にする決心をする。 その努力の甲斐があって小百合の命は助かり、父である村の助役(井川比佐志)に非常に感謝され、村の医院を大きくしたいので是非とも協力してくれと頼まれる。美智子は自分の症状がこの村に来て治ってきていたので村の医療に貢献する決心をする。一方孝夫の恩師幸田は死期が近いと感じて孝夫夫婦を呼び、自分の大事な刀を孝夫に譲る。その刀は村の祭りの日に神に奉納する舞で重要な役割をになっているものであった。孝夫はその役目すなわち舞を踊るのをひきつぐのである。やがて幸田は威厳を保ちつつなくなり、嫁のヨネ(香川京子)も阿弥陀堂に夫の位牌を預けるのである。

 孝夫は自分の仕事がうまく行っていないにも拘わらず飄々と村の人々と溶け込んでいて冬の祭りに舞を踊りこなすのである。このように阿弥陀堂と信州の一年が過ぎさり、季節の移り変わり、美しい自然の変化が美しい心を持った人の変化と織り合わさって流れていく。現在の日本でなくなりつつある美しい物を自然と人の心に焦点をあてて描いている。これは日常の現実ではなく夢のようなものであろう。実際の人間や都会の状況は色々な問題や間違いや汚れがあり、だからこそ余計にあってほしい美しい夢も必要なのだろう。

 ところで美智子のパニック症状が治ってきたのは環境や人間関係が変わったためであり、精神症状が人間関係や環境の複雑さのなかで起こってくると同時にその中で症状もよくなると言う一面が描かれていてそのとうりだと思った。

| | Comments (74) | TrackBack (5)

院内報

こころ1
日本神話と精神医学
 日本神話の登場人物(神様)にはイザナキ、イザナミ、アマテラスオオミカミやスサノオノミコトなど有名な神様がたくさんいます。これらの登場人物の性格を知ることにより、日本人の性格特徴や人間関係の持ち方が理解され、日常のストレスに対応していきやすくなると思います。
 今回はイザナキとイザナミについて述べます。キやミは男性・女性を表す言葉であり、イザナキやイザナミのような日本神話の天津神々の代表が夫婦であり、いざなうというお互い誘い合う言葉であります。男女対等に近い表現がなされています。西洋のゴッドは唯一神であり、日本の八百万の神々と相当違った性格と言えます。
 日本人には絶対的な力を発揮する存在より、種々の能力を持った人々の集まりの方に親和性があるのでしょう。両神が出会って子を産むときに描写された性器については「なりなりてなりあまるところ(男性器)」、なりなりてなりたらぬところ(女性器)」という表現が使われています。かなり間接的な表現であり、余る-陽、足らぬ-陰の対比ができます。確かにイザナキは生の神であり、イザナミは死の神でもあります。しかし子供を産むのは女性であり、太陽神であるアマテラスも女性であるにもかかわらず、女性神のイザナミは死を象徴しています。女性に対する複雑な観念といえます。

高齢者の精神疾患1 -痴呆症-
 痴呆症には治療の難しい不可逆性のアルツハイマー型痴呆、進行しない外傷後の痴呆、治療可能な脳血管性痴呆やアルコールによる痴呆、内分泌異常、うつ状態と関連する痴呆様症状などがあります。特に治療可能な可逆性の痴呆や仮性痴呆の鑑別は非常に重要です。

老人性痴呆の症状
 痴呆の主な症状は意欲低下と記憶障害です。意欲低下は大脳の前頭葉障害と関係します。記憶障害は側頭葉障害と関係します。人間の前頭葉・側頭葉は他の哺乳類、類人猿と比べて非常に発達してきており、前に折れ曲がらないと頭蓋に納められなくなってきています。意欲・やる気・活動性は人間の生活の基本であり、意欲低下は社会生活上の困難を伴います。
 記憶力にはものを覚えていく記銘力、覚えたものを思い出す想起力、覚えたものを保つ保持力、今経験しているものと覚えたものを比べる照合力があります。痴呆症の場合、記銘力が障害されます。刻々変化する時間、場所、新しく出会う人物を覚えられなくなります。これらの記憶は最近のものですが、今まで記憶・蓄積してきた過去の出来事も比較的新しい出来事から徐々になくなっていきます。病気の経過とともに最後まで残っていた小さい頃の記憶もなくなります。
 その他計算力障害、判断力障害などの知識低下と幻覚・妄想・せん妄などの精神症状も出現します。記銘力低下を代償する形で話の辻褄を合わせて事実と違う話(錯話)もしてしまいます。 

■こころ2
日本神話と精神医学-2-
神話でみる日本人の特徴
 妻のイザナミが子供ホノカグツチを産んで亡くなった後、イザナギはとても嘆き悲しみました。このイザナギの態度は、妻なくてはおれない依存心か、妻を非常に愛していた夫婦の強い結びつきなどを表しています。どちらかといえば妻を追って、黄泉の国に行き「見るな」のいましめを守りきれなかった所や、妻の腐敗した姿を見て驚き逃げた所がイザナギの軟弱さ、厳格さの無さを表しています。
 イザナギが黄泉の国から帰って(よみがえり)阿波岐原でみぞぎをした時にたくさんの神々を産みます。最後に左目を洗った時に生まれたのがアマテラスオオミカミ、右目を洗った時に生まれたのがツクヨミノミコト、鼻を洗った時に生まれたのがスサノヲノミコトです。鼻から生まれたスサノヲについて、鼻=息をすろところ、スーサ=息の音、スサノヲの性格=荒ぶる勢いなど意味や音が相互に関係しています。精神医学的には呼吸器系統と関係するのは不安や過呼吸症候群の時の呼吸困難があり、なきいさちるスサノヲの性格からして鼻と関連することが分かります。
 西洋の自我とは違ってイザナギとスサノヲが妻や母などの女性に甘えや依存を示していて、それが日本人男子の特徴でもあります。このように神話からも日本人の特徴が見て取れます。

高齢者の精神疾患2 -痴呆症-
  非可逆性の老年痴呆にほアルツハイマー 型のほかにピック病があります。ピック病 は前頭葉や側頭葉の萎縮が特徴です。異食や卑猥な言動、暴力行為、言動の繰り返しなどが自立ちます。一般的にはアルツハイマー型は多幸的になる人が多いのですが、ピック病は早くから人格が崩壊します。
 その他ウイルスより小さいプリオンが原因と言われているクロイツフエルトヤクブ病があります。この病気は急速に痴呆状態になり、数ケ月で植物状態になります。最近牛によって媒介される病気ということでイギリスで話題になったことがあります。

性格に左右される痴呆の症状
 痴呆は知の病であり、呆けて来ます。さらに本人の状態は元来の性格と深く関係します。もともと勝ち気な人は自分の物忘れに対して否定したり、受け入れを拒杏したり物忘れが無いかのように振る舞います。また物忘れのいらだちを人のせいにしたりします。自分の物忘れを認めず、例えば自分が物の置き場所を忘れたことを認めずに誰かが盗ったと言い張ります(被害妄想)。このような痴呆患者は人に頼りたくないのに頼らなければならないし、世話をしてもらわなければならない。そのため頼らなければならない人、例えばお嫁さんがこの被害妄想や攻撃性・怒りの対象になります。

 一方弱力性で内向的な人は意欲低下に加えて、物忘れに対する怒りを自分に向け、自信喪失・抑うつなどが出現します。この抑うつ状態は痴呆を背景としており、抑うつ状態が良くなっても痴呆症状が進行しますので本来の抑うつとは区別出来ます。

■ こころ3
日本神話と精神医学-3- 男性性と再生
 今回はスサノヲとオオナムチ(大国主)とヤマトタケルについて考えたいと思います。
 3者には武人的性格が共通しています。スサノヲは高天原を追放されて出雲の国に降り立ち、ヤマタノオロチを退治して、最後に根の堅州国すなわち黄泉の国の主になり、結局母イザナミの世界に安住してしまいます。またオオナムチが娘須勢理姫と結婚し、葦原の中国の支配者になるのに試練を与えてオオナムチの成長を見届けます。このまうにスサノヲの前半と後半では性絡がすっかり変わっています。
 オオナムチも兄達八十神に何度も殺されながら、再生し黄泉の国にて、勇気をしめして葦原の中国の支配者になります。しかし最後の国譲りの時には決断を息子達の建御名方神や事代主神にさせます。
 ヤマトタケルの前半は兄大碓命を凶暴にも殺し、策略によってイズモタケルやクマソタケルを殺しその地を支配します。後半は性格が変わって、神剣草薙の剣を帯びて、東国遠征に行き、女性達に助けられながら平らげていきます。最後は滋賀県と岐阜県の県境能煩野で大和を望みながら死んで白鳥になります。
 スサノヲとヤマトタケルの前半は荒魂(あらたま)で後半は和魂(にぎたま)に変化再生します。精神医学においても大きな精神的混乱を経て始めて、精神状態が落ち着くという面があります。一方オオナムチほ元々慈愛と勇気をもちながら、再生によりますます大きく成長し、葦原の中国の支配者になります。このように精神の成長には荒れるという一面と再生が非常に重要です。

高齢者の精神疾患3 -老年痴呆-
痴呆の検査ってどんなことするの?
 痴呆を調べる簡単な心理検査には長谷川式痴呆評価スケールがあります。年齢、日付、場所、短期記憶、簡単な計算、日常品の名前などを聞きます。時間、場所見当識と記名力の検査が当然質問項目に入っています。その他N式精神機能検査もあります。テストで痴呆が疑われたら、現病歴、臨床症状、脳波、CT、MRI、血液検査などで確定します。

検査でわかる痴呆の特徴
 脳波検査ではアルツハイマー型痴呆の場合、正常者の基礎波よりかなり遅い波すなわちデルタ波やシータ波が間欠的に入ってきたり、基礎波すなわちアルファ波が遅くなってきます。脳血管性痴呆の場合は梗塞などの傷害部位に対応して局所的に徐波化が起こってきたりします。
 CTやMRIでは痴呆が比較的に進行している場合に萎縮所見がみられます。脳血管性痴呆の場合小さな梗塞がいくつかみられます(多発梗塞性痴呆)。脳室拡大傾向があり、痴呆・歩行困難・尿失禁があれば正常圧水頭症が疑われて、時に脳室シャントなどの脳外科手術の適応になったりします。
 甲状線機能が低下しているときにも痴呆様症状がみられます。
 ところで上記検査結果に異常がなくても痴呆ではないといえません。痴呆の初期には検査に異常所見がないことも多いです。

■ こころ4
日本神話と精神医学-4- 神話における女性性
 前回は男性性について述べました。今回は神話で語られる女牲性について述べます。太陽神アマテラスは海神スサノヲの姉であり、荒ブル弟をどこまでも受容していく。しかしスサノヲの乱暴狼籍が続き、織り殿に逆はぎした斑馬を投げ入れられ、驚いて織女が火陰(ほと)に梭(機織り道具)をつきさしてなくなったため、さすがに参ってしまい天の岩屋戸にこもってしまいました。このように日本の代表的女神は姉や母・妻として身内の男性の荒々しさを出来るだけ許容しますが、限界が来たら退くというありかたをしています。
 オオナムチの場合は八十神達に二度殺されて、母神に二度も生き返えされています。母神がオオナムチを産んだだけでなく、再生の手伝いをもしています。
 その後は黄泉の国において、スサノヲの娘でありオオナムチ(大国主、大物主)の妻である須世理姫はオオナムチが父スサノヲに過酷な試練を与えられ危機に陥る度に、助け船をだしています。この場合女性は夫や彼が一人前の男性になるために知恵を貸しています。男性は女性の助けなくては一人前になれないということです。
 ヤマトタケルの場合は荒々しい西征のあと、父景行天皇に休む暇もなく東征を命じられました。ヤマトタケルはおばのヤマトヒメから神剣草薙の剣をもらい東征に役立てます。さらにオトタチバナヒメの自己犠牲により戦士の手柄をたてます。このように神話の女性達は男性を再生させる助産婦的ありかたをしています。
 現在の社会ではこういう役割分担には疑問が発せられています。

高齢者の精神疾患4 -老年痴呆-
 痴呆症の治療には、原因・症状によって薬剤を使い分けますが、デイケアなどに参加して人間関係を保持することも非常に重要です。
 
 脳血管性痴呆症の治療薬としては脳血流改善剤と脳代謝改善剤がよく使われます。血管性病変の原因である高血圧や高脂肪血症の治療も重要です。アルツハイマー型の治療薬は無いと言われてきましたが、最近厚生省によって始めて認可された薬物も出ました。効き具合を期侍したいと思います。
 痴呆症には幻覚・妄想・独語・徘徊・興奮等の精神病症状を併発することもあり、そのような症状のときには抗精神病薬がよく効きます。風邪をひいて熱がでたり、住所や人間関係が変わるなどのストレスが加わると、不眠に加えて軽い意識障害や幻覚などを起こすせんもう状態になりやすく、この状態にもよく効く薬があります。痴呆症とは違いますが、仮性痴呆のときは抗うつ薬が非常によく効きます。
 痴呆症は意識低下をおこし感覚も鈍麻してきますので、デイケアなどに参加して活動性を維持しつつ、人間関係を保ち続けることが非常に重要です。
 記憶障害があるため、忘れては命にかかわる火やガスには注意が必要です。しかし基本的には本人のしたいこと、やれることはなんでもしてもらうことです。
 被害妄想が人間関係を悪化したり、徘徊などで行方不明にならないためにも、地域に了解してもらっておくことも一方でしょう。

■ こころ5
日本神話と精神医学-5-
 日本神話には夜の話が少ないといわれています。
 夜は(よる・よ)といわれ、タは(ゆう)といわれます。さらに聞(やみ)黄泉(よみ)病(やまい・やむ)など音が関連しています。日本神話の夜の神は月読みの命であり、神話に登場することはあまりありません。黄泉の国は根の国と関連しており、夜の食〈お)す国とは関連していません。河合隼雄はツクヨミの夜の食す国をアマテラスの高天原とスサノヲの海・根の国の緩衝機構として捉えた中空機構について考えています。
 日本人は死のことや、病のことを直視しない傾向があり、臭いものに蓋をする傾向があるのも神話には夜の話が少ないことと関連していると思われます。死は仏数によって来世・あの世・地獄・極楽浄土という形で導入されましたが、それ以前はイザナミの黄泉の国でした。夜は語られずに黄泉は黄泉平坂で遮られました。死は不浄と考えられる傾向にあり、考えたくないようです。日本神話でも登場人物は死ねば目立たなくなります。日本人の死の捉え方の一面がでています。
 さらに夜の話が少ないということは月・星の話も少なくなり、絶望や逆境のなかで明かりを見つけにくい構造があるかもしれません。

思春期青年期精神医学1
 思春期は第2次性徴が出現し完成する青年期前期であり10歳から15歳までと考えられ、青年期は児童期と成人期の中間期であり、青年期中期は15歳から18歳まで、青年期後期が18歳から23歳くらいまでと考えられています。
 思春期が一層若年に始まり、さらに青年期心性が延長して、20代後半まで持ち越され、自立を猶予されるという意味でモラトリアムとも言われています。心理的には青年期とは第2反抗期などの両親との葛藤を通じて自我を確立していく時期にあたります。家庭や学校で守られている状態から、社会に出て仕事をし自分の家庭をつくる準備をしをけれぱをらない時期といえます。ひとりひとり遺伝体質・能力・才能・性格が全く違いますが、個々人が造る各家庭も全く違っています。
 人は自分の見ているものしか見えません。自分の聞こえているものしか聞こえません。自分の分かること感じることしか分かりませんし感じません。自分の母親像・父親像・家庭像しか経験していません。あたりまえのことですが、個人や家庭が自閉的・孤立的であればあるほど他人や他の家庭のありかたから遠ざかり、分からなくなり、他人が不気味になります。訳が分からなければ分からないほど自閉的になっていきます。
 孤立的家庭で育った自閉的個人が社会に出て他人と一緒に仕事をしていくときにも、他の家庭で育った異性と新家庭を造るときにも大変な負担がかかります。従ってこれらのことが心理的な思春期・青年期危機を生みだすのは自明でしょう。

■こころ6
データなし

■こころ7
日本神話と精神医学-7- 失敗?の処理方法
 砂像のイザナミが泥像のイザナキより先に誘いの言葉をかけて悪い子が出来ました。名前はヒルコといわれて蛭(ヒル)のような形をした子でした。この始めの子供は葦船に入れられて流し捨てられました。ここには男性優位の思想と障害者を捨てるという発想があります。
 最近になってこれらの差別的考え方が訂正されてきましたが、まだまだ根深く残っているのは神話にもこういう差別的発想があったからでしょう。神話における障害のイメージが手足のない状態であり、あきらかに障害=手も足も出ない、何も出来ないということが結び付けられています。生産的でない御子は水に流して捨ててしまった
のです。
 これらの話の心理にはいやなことつらいことは水に流すという発想があり、問題をしっかり見据えて解決する発想ではないようです。まさに手も足もでない発想のようです。
 ついで淡島がうまれましたがこの子も御子の仲間にはなれませんでした。淡という発想は薄いとかすぐ消えてしまうという意味であり、はかないものに対する特別の意識はあるが否定的発想のようです。はかないものたよりないものに対しては積極的に拒否したのではなく、数えなかったすなわち無視したのです。
 日本人の長いものに巻かれたり、あきらめや無常観はこれらの心理とも関係しているでしょう。このように日本人の失敗意識も問題ですが、失敗に対する対処方法にも反省すべきところがあります。

思春期・青年期医学3 ―境界例(2)― 感情の激変について
 前回も述べたように境界例の感情状態は安定したものではありません。感情が理由もなく激変します。しかし初対面で感情状態が安定しているときにはそとからは簡単には感情の不安定さは分かりません。患者の感情状態の変化の原因は今の人間関係のなかにはなく、いままでの人間関係の積み重ねのなかにあります。
 健康者の場合、うっとうしい感情のときには周りに対してもうっとうしく感じます。まわりもその人のうっとうしい状態がわかり、意識してかかわります。そっとしてやったり、用事を肩代わりしてやったりします。その人も周りの気遣いを感じて、徐々に元気になっていきます。
 境界例の場合、今うっとうしいのだろうと思って、周りが気遣って本人にかかわったときには健康者のように反応するときと、周りの対応と無関係に、突然感情状態が変化するときがあります。まわりがにこやかに話しかけているにもかかわらず急におこりだしたりします。患者の感情が理由無く変化しやすいことと自分の感情(例えば怒り)であるにもかかわらず相手の感情と感じてしまう(自分が怒りっぽくなっているにもかかわらず相手がおこっていると感じる)ことが原因とおもわれます。
 最初はしっかりした人だと感じても、付き合っているうちにこの人にはこういうところがあったのかと驚かされたりします。すなわち全般不安が突然他罰的衝動性に変化したりします。 

■ こころ8
日本神話と精神医学-8-  無常観
 天孫ホノニニギノミコトはオオヤマツミノカミに二人の娘をさしだされます。コノハナサクヤヒメとイワナガヒメです。イワナガヒメは醜女だが長寿の象徴です。コノハナサクヤヒメは美女だが短命です。ホノニニギノミコトはコノハナサクヤヒメだけをめとり、イワナガヒメをオオヤマツミノカミにかえします。こうして天皇の命が短くなったと言われます。
 この神話は日本人の無常観と関連しています。コノハナサクヤヒメはさくらの様な存在であり、さくらはいっときに満開になりぱっと散ってしまいます。このような現象に日本人はひかれます。すべての華やかなことは消えてなくなってしまうという意識は神話形成時代にもあったと思われます。日本人にはいま栄えていてもいつかは滅びるという無常観を持っているゆえにおごりすぎることもなく自省・自罰的です。(おごれるものはひさしからず)この精神は潔いあきらめとも関係していると思われます。やりとげるときの一抹の不安すなわち成し遂げてもまた消えてしまうという不
安が、自分だけの成功でなく相手を遠く慮る遠慮や和の精神を引き起こしている面もあると思われます。しかし自己主張の弱さや途中で責任を放棄してしまう無責任にも通じるのが問題です。

思春期・青年期医学4 ―境界例(3)― 多重人格障害との異同
 境界例では自分自身や自我が保たれているにもかかわらず、感情、態度、行動が急に変化します。本人は自分のこの変化を意識していますが、感情・態度・行動等の変化理由を自分のせいではなく他者のせいにします。自分における感情の変化にもかかわらず他者の感情が変化したと感じられます。このように感情・態度・行動が無意識
のうちに急変します。
 ところで心因性健忘は感情・態度・行動などの性格行動特性は変化せずに自分や自我の記憶が一時期思い出せなくなってしまいます。言葉の使用や日常生活は大きな支障なしにおこなえるにもかかわらず、自分の生活歴が思い出せなくなります。
 一方多重人格障害は自分や自我そのものすなわちアイデンティティが一時期変化してしまいます。記憶や経験の主観的印象がころっと変わってしまいます。自分自身に加えて感情や態度・行動も変化して全く別人格になります。
 境界例は性格・人格障害であり、心因性健忘はストレスが加わったときの神経症状態と思われます。上記により多重人格障害は性格人格障害とストレス性反応の両要素が加わっていると思われます。また幼児期の虐待が関係しているとも言われています。
 しかしながらこれらの人格障害・疾患はある種の精神分裂病と違って、自我機能が断片化することはありません。

■ こころ9
日本神話と精神医学-9- 性象徴
 精神分析の立場では性の意味と心身や心身の発達が深く関係しています。口と乳、肛門とトイレットトレーニング、父母兄弟との心理関係を性の意味を含めて考えます。
 日本神話で性の意味を含んだ登場人物はサルダビコとアマノウズメです。顔が赤く、鼻が大きく長く、目もホオズキに似た異様なサルタビコ(男性性象徴)はアマノウズメ(女性性象徴)と向かい合い、アマノウズメがサルタビコに性心理的意味で勝利をおさめ、サルタビコの真意をアマテラスに伝えて天孫降臨が決行されます。高天原か
ら葦原中国に降りるときに案内役として、性象徴のサルタビコがいることは葦原中国の繁栄を象徴していると思われます。女性最高神アマテラスが遣わしたアマノウズメがサルタビコに勝ったことは女性や母権の強さを表しているでしょう。アメノヤチマタでサルタビコがいたのは、別名ちまたの神と呼ばれるように、村のはずれや道の辻で、邪神が村へ侵入するのを防いだり旅人の安全を守ったりする道祖神を連想させます。まさにフロイトの主張しているように、精神の発達とも関連して、ある世界から別の世界にはいる境界には生産とも関連する性象徴が重要な役割をになっています。
 ところで、母の家庭から独立し結婚して異性との共同生活に入るのに、男女の性的結びつきは上記から分かるように、生理的であると同時に心理的なものであります。

思春期・青年期医学5 ―統合失調症(1)― 思春期・青年期の代表的疾患
 精神分裂病は思春期・青年期の代表的疾患です。さらに精神疾患のなかで最も重要なもののひとつです。青年期は就職や結婚を控え、社会人になるための準備段階といえます。就職すれば他人と一緒に共同作業をし、結婚すれば異性と一緒に共同生活します。他人や異性は自分の育ってきた家庭とまったく違った家庭環境出身であり、異
なった個性を持っています。全く違った人間同志が時空間を共有するということは大変なストレスがかかります。人間はこのストレスに耐えて人間関係を持ちつづけることが出来なければ、精神の発達は停滞する傾向があり、少しのストレスで、個人の不安は増大し他人や外界に対する畏怖・恐怖も増大します。このような思春期・青年期の社会的ストレスは精神の不安や恐怖を引き起こし、精神のまとまりを奪い精神分裂病を引き起こしたりします。
 精神の分裂とは精神のまとまりのなさの極端な場合ですが健常な精神といえども無関係ではありえません。人はいらいらと落ち着きをなくし、もやもやと悩みます。かりかりと怒ったり、むらむらと性衝動を感じたり、びくびくと恐れます。これらの精神状態は精神のまとまりのなさ、落ち着きにくさ、不安定感をあらわしています。精神分裂病はこのまとまりにくさがひどくなり、精神状態のコントロールが難しくなった状態と言えます。


■ こころ10
日本神話と精神医学-10- 「鳥」
 鳥は空を飛びます。空を飛ぶということは精神の象徴であり、空を飛ぶ夢は言葉やその獲得の象徴といわれています。従って鳥自身が精神や言葉の象徴になります。確かに空を飛ぶのは大地からの跳躍・飛翔であり、物質世界・肉体からの跳躍・飛翔でもあります。物質世界・肉体から人間を飛翔させたのは言葉であり、精神であります。
日本神話でも鳥は重要な役割をになっており、精神・霊や言葉を象徴しています。
 ヤマトタケルはなくなって白鳥になり、故郷の大和や河内にむかいました。ヤマトタケルの肉体は死んでもその精神性や霊性が白鳥に象徴されて残ったといえます。
 垂仁天皇の王子のホムツワケは物言わぬ王子であり、ホムツワケが白鳥を得て始めて言葉を発したと述べられています。ホムツワケが30才になった時に白鳥を見て「あれは何か」と言ったので、大王が白鳥を捕らえさせた時に王子は話せるようになりました。この白鳥は大国主の命の霊力を象徴しています。このように日本神話では
言葉や霊が白鳥と関係しています。
 神武東征中、熊野の山奥でヤタガラスに導かれて、大和盆地に入りました。このヤタガラスは高天原の使いであり、高天原の意志や精神性を伝える役割をしています。天にある高天原の意志を伝えるには鳥がぴったりといえます。
 天孫降臨に先立ちアメノワカヒコが葦原中津国に派遣されましたが、アメノワカヒコは高天原に戻らず、高天原の使いの雉の鳴き女を弓矢で殺してしまいます。しかしタカミムスビ・アマテラスにその弓矢を投げ返されアメノワカヒコは死んでしまいます。鳥はこのように生死に係わる運命を表す象徴でもあります。

思春期・青年期医学6 ―統合失調症(2)―
 精神分裂病の症状で代表的なものは意欲低下と被害妄想です。その他自閉、連合弛緩、両価感情、幻聴などの幻覚、種々の妄想、精神運動興奮、カタレプシー(蝋様現象)、病識欠如などがあります。 意欲低下は精神分裂病の基本的症状であり、人間・社会・自然などの外界の出来事に関する関心・興味・好奇心などがなくなります。無
欲状態はアンヘドニアとも言われます。
 楽しいことは何もなく、一日一日ただ無為に過ごすだけになり、ひどくなれば、食事もしなくなります。もちろんお金、友人、異性、楽しみなどにも関心がなくなり人生の意味が崩壊していきます。意欲低下は陰性症状の一つであり、陰性症状はあまり目立つ症状ではなく、徐々に進行していく傾向があります。これといった薬もいまの
ところありません。
 従って、まわりが本人を追いつめない程度に出来るだけ関わり、働きかけ続ける必要があります。不用意に本人に近づけば、ますます閉じこもってしまったり、心を一層閉ざしたりします。 精神としての意欲の中枢は大脳の前方にある前頭葉が司っています。人間は大脳特に前頭葉が他の動物に比べて大きくなっており、頭蓋内に納まりにくくなって前方下部に折れ曲がっています。人間の進化発達は大脳特に前頭葉の発達と深く関係しています。前頭葉には快楽神経系の伝達物質ドパミンが豊富に分布しており、フィードフォワードすなわち刺激されればされるほど活発に分泌されるといわれています。
 精神分裂病の陽性精神症状が強いときにはドパミンが多量に分泌されます。一方意欲低下症状が目立ってきている人は前頭葉のドパミンが少なくなってきていると思われます。このように意欲や陽性精神症状と深く関連するドパミンが精神分裂病の病態と深く関係しています。


■こころ11
日本神話と精神医学11 「蛇」
 日本でも西洋でも、蛇は悪いイメージをもった神秘的象徴として考えられています。旧約聖書ではアダムとイブが蛇にそそのかされて、りんごを食べて知恵を得た代わりに労働と出産という苦痛を背負い込むことになりました。
 夢分析では蛇は男性器の象徴のときがあります。このように西洋では蛇は男性器、知恵、悪者、苦痛を象徴しています。
 日本神話では蛇はスサノヲ、オオナムチ、オオモノヌシと関連して出現します。スサノヲが高天原を追放されて、出雲肥の川上流の鳥髪山近くに降りました。ヤマタノオロチという蛇あるいは竜のような八頭八尾の怪物がアシナツチ、テナツチの娘クシイナダヒメを食べるのをスサノヲは救いました。このヤマタノオロチの尾から草薙の剣が出てきました。夢分析では剣も男性器、男性性、攻撃性の象徴のときがあるので、蛇が剣に変わったといえます。
黄泉の国に静まったスサノヲに対して、オオナムチがその娘のスセリヒメと結婚し国土の支配者になるために挑みます。その試練の一つに蛇の室が登場します。
 箸墓伝説では、オオナムチすなわち大和での別名大物主がヤマトトトヒモモソヒメを妻としたが正体が蛇であることが露見し、三輪山に去って行きました。夫の正体が蛇であることを知ってモモソヒメが約束を破って驚きの声を出したため、大物主の分身である箸で陰部を刺されて死にました。
 男性器、男性性、攻撃性の象徴としての蛇は日本でも西洋でも共通です。神話においては苦難を経て悪いイメージの蛇が良いイメージの剣に変わることが述べられています。
 悪いイメージが表に出るとお互いが不幸になり、悪いイメージや困難に立ち向かって初めて良いイメージが出現する、とこれらの神話は語っているのでしょう。

思春期・青年期医学7 ―統合失調症(3)― 幻覚・妄想
 幻覚は周りの人には感覚できない出来事を本人が感覚することです。幻覚には幻聴、幻視、幻臭、体感幻覚などがあります。分裂病の場合には幻聴が多いです。大脳の器質的障害の一面もあるアルコール依存症や老人精神病の場合には幻視もみられます。
 分裂病の幻聴で最も多いのは被害性幻聴であり、「バカ」とか「あほ」などの悪口が聞こえることがあります。自分の精神のはたらき、特に考えのようなものが自分の体から離れて、体の外に自分以外の人の声として聞こえます。自分の心や考えが自分の心や考えでなくなるのは、自分にとって不快な認めたくない内容のことが多いでしょ
う。自分の体の外の出来事は自分の体の中にある大脳で感覚しているはずですが、自分の体の中ではなく、外に感じられます。視覚、聴覚などの自分の大脳の感覚が何故自分の体の中のものと外のものに区別されるのかはあたりまえのことすぎて、はっきりしないところもあります。感覚ではないのですが、自分の考えなのか他者の考えな
のか分からなくなることもあります。
 幻聴とは自分の体のなかにあるべき精神現象(考え、感情など)が自分の体の外に感覚されることです。精神現象は不安定になればなるほど、自分のものという感じがなくなっていきます。自分が考えている、自分が気にしている→考えが浮かんでくる、いろいろ気になる→考えがこびりつく、気になって仕方がない→次から次に勝手に考
えがでてくる、感情がコントロール出来ない。
 この段階から急に飛躍しますが、聞こえてくる気がする、相手が自分のことを不快に思っている→悪口が聞こえる、悪口を言われるなどに変化していきます。
 気にするなどの感情は、悪口を言われるなどの妄想に変化していったりします。妄想とは本人のまわりがあり得ない、間違っていると確信している出来事を本人が確信することです。お互い間違いのない確かな出来事は真実、現実、事実、確実などといわれますが、これらの確信は自分が誕生して以来、人間と人間のコミュニケーションによって確かなものになってきたものです。このように妄想とコミュニケーションの問題は深く関係しています。


■こころ12
日本神話と精神医学-12- 「食べ物」
 日本書紀にはイザナミがカグツチ・ハニヤスヒメ・ミヅハノメを生み、カグツチとハニヤスヒメが結婚婚してワクムスビが生まれ、ワクムスビの頭の上から蚕・桑、へそから五穀が生じたと書かれています。またアマテラスは葦原中国にいる食べ物の神ウケモチ(保食)をツキヨミに見にいかせました。ウケモチは口から飯、魚、鳥、獣などの食べ物を出してごちそうしましたが、ツキヨミは口から吐いたものを汚らわしいと思ってウケモチを殺しました。アマテラスはこれを知ってツキヨミのことを怒り、昼と夜別々に住むことにしたと書かれています。ウケモチの死体からは五穀や牛馬な
どが出てきて、それらを使ってアマテラスが人々に 農耕を教えたと書かれています。古事記にはスサノヲがオオゲツヒメに食べ物を乞うたときにヒメが鼻・口・尻などから食べ物を出してもてなそうとしたので、スサノヲに汚らわしいと思われて切り殺されます。
 これらの話はハイヌウェレ神話といわれ、東南アジアに由来します。食べ物の神の体や死体から得られるという内容は、自分の日々の糧(物質的、精神的)が誰かの犠牲のうえで得られるという意味をもっています。さらに物質的・精神的犠牲は死んでからも後世に大きな影響を与え続けられることを意味しています。神の体から出た不要で汚いと思われる老廃物が人々の生活の糧になるということは一見役に立たないものが重要であるということを示唆しています。
 精神医学において人間関係の心理的側面はかみ砕いて話す、つばを吐く、むかつく、呑込む、消化不良、焼け食い、げっぷなどの消化器系の言葉であらわされたりします。食べ物も消化器系と関わっていますので、人間関係の一面を表します。食べ物の神の体や排出物は、一見無用で無意味あるいは不快なものであり、不快な体験であります。すなわち不快な体験をして始めて、食べ物(人からの心理的栄養・重要で役にたつこと)が得られると神話は語っているのでしょう。

思春期・青年期医学8 ―統合失調症(4)― 連合弛緩・支離滅裂
 分裂病の代表的症状としては、他に連合弛緩・支離滅裂があります。連合弛緩とは話したり書いたりしている文章中の言葉に、種々の言葉が意味や音が似ているというだけで次々と結びつく結果、相手に理解してもらえる文章にならないことを言います。支離滅裂とは全く無関係と思われる言葉が次々結びついて、何を言おうとしているのか相手には理解できない話し振り書きぶりのことです。
 人は何故相手に言葉の意味を理解してもらったりさせたり出来るのでしょうか? 何故相手の言う事が理解できるのでしょうか? コミュニケーションという意味はあまりにもあたりまえすぎて、それがどういうことなのか理解しにくい一面があります。相互理解の基本は相手と関係をもって、相手を理解し自分を理解させようという意欲です。相手に自分の言いたいことを理解させるには、時・場所・主語・目的語・述語・手段・方法・理由などを文法的構造に沿って話しをしなければなりません。文法に沿って話しができないために分裂病者の文法がくずれ、話が理解しにくくなる場合があります。
 文法は法則のひとつであり、法則とは対人関係の基本的習慣が基にありますから、法則がくずれるということは対人関係の基本的営みの基になるところがくずれることです。基本的習慣は人と付き合い、人を必要とすることによって、強固なものになります。人との交わりを必要としない場合、人と交わるための習慣は必要でなくなりま
す。その結果習慣や法則がくずれたりします。文法という言語習慣がくずれると自分独自の手近で身近な結びつきが優位になり、意味が似ていたり音が似ているだけで言葉が結びついて語呂合わせとしか思えない言葉を話したりするようになります。これがひどくなった場合が支離滅裂です。


■ こころ13
日本神話と精神医学-13- 「女神の死体」
 前回の続きで女神の死体について述べます。
 古事記によるとスサノヲが出雲の国に降りていく途中でオオゲツヒメに食べ物を乞い、オオゲツヒメは鼻や口や尻からくさぐさの食べ物を取り出してスサノヲに進上しますが、その様子を見ていたスサノヲはけがれた物を食べさせるといってオオゲツヒメを殺します。その死体からは頭(カシラ)に蚕生り、二つの目に稲種生り、二つの耳に粟生り、鼻に小豆生り、陰(ホト)に麦なり、尻に大豆が成ります。ここでは女神の身体の頭、目、耳、鼻、陰、尻に目を付けています。
 日本書紀によるとウケモチの神が首(コウベ)をまわして国に向かうと口から飯が出て、海に向かうと大小の魚が出て、山に向かうと大小の獣が出ました。ウケモチがそれをツキヨミに差し上げるとツキヨミは口から吐き出したものを食わせるのかといってウケモチを殺しました。ウケモチの神の頂きに牛馬なり、額の上に粟なり、眉の上に繭なり、眼の中に稗なり、腹の中に稲なり、陰の中に麦及び大豆、小豆が生りました。
 また日本書紀一書ではイザナギが黄泉に行ったイザナミに会いに行き、火をともしてイザナミを見ると八色の雷公(イカズチ)がありました。頭に大雷、胸に火雷、腹に土雷、背に稚雷、尻に黒雷、手に山雷、足に野雷、陰に拆雷がありました。
 以上の3女神に共通している身体の部分は頭部と陰(ホト)です。それだけ心理的にも重要な意味をもつということです。女性器・陰(ホト)は形状からさける、われるという言葉が連想されます。さけるは裂、坂、境、酒など分離的境界的現象を意味しており、われるは湧く、分かれる、分かるなど破壊・生成・分割・理解などの意味
とつながります。
 精神医学においても重要な境界的現象(境界症例、非定型精神病、アルコール依存など)は新しい現象の生成と古い現象の破壊、違った現象の混合と関連しており、それらの現象が女性性器が象徴している生や性の意味と深く関係しています。

思春期・青年期医学9 ―統合失調症(5)― 自閉・内閉
 自閉・内閉も精神分裂病の代表的症状です。自閉とは自分の中や殻に閉じこもることであり、対人関係が少なくなり、人との会話も少なくなり、外出もせず、自宅や自分の部屋に閉じこもりがちになります。内閉もほぼ同様の意味ですが、自分独自の精神的世界に閉じこもり、他者の世界や他者の経験が本人の世界に入りにくい傾向をいいます。豊かな自閉という言葉があって、自己の内的精神的世界は活発で一見非常に豊かであっても他者との真の交流が出来ない、コミュニケーションが出来ない場合をいいます。
 自閉は自閉症という精神遅滞におこる大脳の器質障害とは区別しなければなりません。
 精神分裂病の自閉には他者に対する被害妄想、被害念慮、対人恐怖などと関連して対人関係において緊張・恐怖・被害・怒りを感じる故に対人関係をさけて閉じこもってしまう傾向があります。自閉的であっても精神的に活発な強い人は自閉的世界の中で一見豊かだが奇異で独特な妄想的・偏執的世界が形成されます。このように自閉的
世界は仮に豊かでも他者とのつながりが少ないために徐々に意味(他者との交流でうまれる)が失われてまとまりもなくなり、自分の意味すらなくして行く傾向があります。自分の意味すらなくなる訳ですから他者や社会に対する意味も消失していき、あいさつもしなくなり、服装もだらしなくなって、不潔でも平気になり、昼夜逆転したりします。最終的には意欲が低下していきます。
 最近ほかの分裂病症状があまりなく自閉傾向が目立っているひとが多くなってきており、ひきこもりといって社会問題になりつつあります。


■ こころ14
日本神話と精神医学-14- 「自殺」
 精神科領域の基本問題の一つ自殺はうつ病よりも分裂病に多いと言われています。うつ病の場合自殺は予想されることが多く、治療しやすい傾向があります。しかし分裂病の自殺は突発的なものが多いと思われます。自分を殺すということは他殺と同じくらいの衝動性・破壊性・攻撃性が考えられ、それが自分に向かったものであり、耐えられない限界状況とも関係しています。
 神話での自殺は箸墓伝説にあります。ヤマトトトヒモモソヒメが夫のオオモノヌシがオロチ(蛇)であるのを見て驚き叫んだので、オオモノヌシが辱めを受けたと言って大空を飛んで三諸山(三輪山)に帰ります。その夫の姿を仰ぎ見て夫を辱めた責任を感じて、陰部を箸で突いて自殺します。責任を感じたことはうつ病と関連する執着性格の一面があります。夫を辱めたこと、責任を感じたこと、蛇、陰部、箸などがこの話のキーワードです。性的象徴や攻撃性が複雑に絡んでいます。
 次に神話ではありませが、垂仁天皇が丹波国の首長の娘5人の内4人を后や妃とされたが、竹野姫は醜かったので除かれました。竹野姫は羞じて輿より落ちて自殺しました。ここでは美醜と女性としての立場と羞恥が問題になっています。
 木梨軽皇子は同母妹軽大嬢皇と兄妹相姦をして民衆が離反しました。結局弟の穴穂皇子の兵に囲まれて自害します。ここのテーマは兄妹相姦、民衆の離反、兄弟権力闘争、自殺です。
 以上記紀での自殺は羞恥・闘争・責任などと関係しています。日本人には羞恥は死に価するほど重かったと言えます。

思春期・青年期医学10 ―統合失調症(6)― 精神分裂病の大脳内過程
 現在、精神分裂病の陽性症状は大脳神経細胞における伝達物質ドパミンが過剰に放出されて引き起こされると考えられています(ドパミン仮説)。
 大脳には約200億個(数百個の神経細胞があり、大脳の各部位すなわち前頭・中心・頭頂・後頭・側頭葉における神経細胞の伝達物質、レセプター(伝達物質の受容器)、シナプス(神経細胞相互の結びつき)等の働きや造りが違っています。他に精神分裂病の病因としてフィルター理論(不必要な情報(雑音)をカットする閾値が高く情報量が
多すぎて混乱するという理論)あるいは認知障害(神経細胞は相互にシナプスによって結びつきネットワークを構成しており、精神現象・身体活動を司っていてその働きのうち特に認知に歪みが生じていること)があります。
 意欲を司り、最も人間らしい部位と言われている前頭葉にはドパミンが多く分布しています。神経細胞相互の連絡は通常フィードバックと言って相互に抑制する傾向があります。しかし前頭葉ではフィードフォワードといって意欲が一層意欲を産み出すと言われています。ドパミン仮説ではとくにこの部位にてドパミンが過剰に分泌され、空想・想像・錯覚・幻覚・連合弛緩・精神緊張・精神錯乱などの陽性症状が出現するといわれています。病気の経過とともに前頭葉の神経細胞が脱落し萎縮し、意欲低下などの陰性症状が引き起こされると考えられています。
 現在の薬物治療はこのドパミン伝達を抑えるアンチドーパが使われており、陽性症状には効きます。しかし意欲低下に効く薬物はまだありません。


■ こころ15
日本神話と精神医学-15- 「恥」
 日本神話には時々恥や辱めが表現されています。黄泉の国でイザナミが黄泉の神々と高天原に戻る相談をしている間、イザナミを見てはいけないと言われていたのに、あまりにも時間がかかったので待ちきれずにイザナキはイザナミを見てしまいます。その姿は腐れ爛れ蛆がたかっている恐ろしい死体と化していたので、イザナキは畏れて逃げ去ります。このときイザナミは恥を感じます。見ないようにと言っていたのに相手が自分を見て、自分の本当の姿に相手が驚きとともに気味悪く感じたと自分が思ったときの感情です。
山幸彦が地上に帰ったのちに妃のトヨタマビメがワタツミの国からやってきて孕んだ御子を海辺の産屋で産むことを伝えて、夫には覗くことを禁じます。山幸彦は好奇心からこれを覗いたところ、ヒメは八尋の大鰐と化していたので、山幸彦は驚き逃げ去ります。このときヒメは恥を感じます。
ヤマトトトヒモモソヒメはオオモノヌシの妻であったが、昼には夫とあえなかったのでオオモノヌシに頼んで昼にもあなたを見たいといったら、オオモノヌシはあなたに私の姿をみせるが、驚かないでくれと言われます。しかしオオモノヌシの姿は小蛇であったので驚き泣き叫びます。このときオオモノヌシは辱めを受けたと感じます。
神話での恥は自分を見るな、自分を見ても驚くななどのタブーにもかかわらず、本当の自分が見られて驚き畏れられたときに生じます。精神医学上の問題である視線恐怖、赤面恐怖、対人恐怖、その他においても本当の自分を知られたくない・見られたくないにもかかわらず、対人関係において知られる・見られるという精神状態が問題になります。

思春期・青年期医学11 ―思春期危機(1)― 発生要因
 思春期の青少年にとっての現実社会は家庭、学校を中心として家族・先生・友人など身近な人間関係で構成されています。社会の出来事は放送・出版などを通しており、生身の人間関係ではないので知的経験が中心となり、全人的経験としては弱いでしょう。
 成人として会社・工場・事務所・店舗などで責任もあり、厳しくつらい一面もある人間関係の場に入っていく準備をする頃に、思春期危機は生じます。身体的に性機能が成熟してきており、知識もかなり獲得されてきて思考力、判断力、決断力、一定の価値観なども身に付いてきます。
 しかし何といっても数少ない人間関係で形成されてきた本人の経験ですから、会社や職場などの人間関係や恋愛などの男女関係の難しさ、複雑さ、奥深さ、斬新さに対するには本人の世界はあまりにも小さく浅すぎます。思春期の青少年の世界は未熟で小さく浅いにもかかわらず、本人にとっては全世界であり、思春期特有の全能感があ
ります。
 すなわち思春期は家庭や学校で培われてきた知識、思考力、判断力、価値観などでもってすべてに対応しえてすべてを了解しうるという全能感や、身体的・心的エネルギーに満ちあふれた理想主義、人間関係による裏付けが少ない自己流の価値観などをもっており、若々しいが自信をもちすぎる精神状態になります。しかし社会的裏付け
がないという無意識の危機が内包されています。


■こころ16
日本神話と精神医学-16- 「同胞葛藤」
 旧約聖書にはアダムとイブの長子カインの作物を神が喜んでくれずに、弟アベルの作物を受け取ったため嫉妬してアベルを殺したという話があります。精神分析では兄弟に対する嫉妬をカインコンプレックスといいます。
 日本神話も同胞葛藤の話題はいくつかあります。アマテラスとスサノヲの関係であり、大碓・小碓すなわちヤマトタケルの話やオオクニヌシノミコトの話もあります。海幸・山幸の話もあります。スサノヲはアマテラスとのウケイに勝ち、驕り高ぶって高天原で乱暴を働いた結果、アマテラスは天の岩屋戸に隠り八百万の神により引き戻
されたのちスサノヲは高天原を追放されました。カインは嫉妬によりアベルを殺しましたが、スサノヲの場合は驕慢により高天原で暴れた結果、機織り女が死にました。小碓の命も乱暴であったため父景行天皇の意向に背いた大碓の命を何の躊躇もなく残虐に殺した結果、父に遠征に出されました。山幸の場合は海幸の針をなくしたが兄の
海幸のかたくなさのため、許してもらえず途方にくれていたが運よく海神ワタツミに助けられて、海幸をこらしめました。スサノヲの驕慢や小碓の命の残虐が同胞の死という結果を引き起こし活動の場を追放されたり、その場から遠ざけられたりします。海幸はかたくなさのために後には山幸に懲らしめられます。スサノヲの驕慢さの場合
八百万の神という集団によって、小碓の命の残虐さの場合父景行天皇という権力によって、海幸のかたくなさの場合ワタツミという外部の力や幸運を手にした山幸によって、報いを受けます。性格上の問題点が因果応報的につらい結果を引き起こします。このように兄弟関係のなかに普遍的な人間の心理をみることができます。

思春期・青年期医学12 ―思春期危機(2)― 自我障害1
 思春期危機の代表的症状に自我障害があります。自我障害が主症状である思春期の疾患に自己臭妄想症などの自我漏洩症候群、自我拡散症候群などがあります。
 自我とは自己の中心と考えられ、自己・自分は遺伝的体質・気質に加えて、母子関係・家族関係・人間関係を通じて形成されます。フロイトは自己・自分には意識・無意識があると主張し、自我・超自我・エス、リビドー・モルチドーなどの概念を創造しました。
 自我を簡単にいえば心としての私、体としての私、精神としての私、心身の中心としての私、気付いている私、気付いていない私などです。
 生きる力、他者に対する関心・興味、異性に対する欲求は無意識エスの一種リビドーと関係していて、遺伝的体質・気質、幼児期の母子関係・家族関係、その後の体験などと関係しています。無意識としての超自我、理想自我は体質・気質、幼児期の父子関係・家族関係、学校・社会規範などと関係しています。自我は自動車のアクセルと
してのリビドーとブレーキとしての超自我を制御したり、影響されたりしながら理想自我に関連する自己を実現しようとします。自我は自己の中心でありますが、病的状態として自我が弱かったり・強かったり、自我が大きかったり・小さかったり、自我が中心になく辺縁にあったり、自我が分裂したりします。また自我が自己をほとんどコントロール出来なくなったりします。
 こうして思春期には自我障害と関係する種々の疾病が引き起こされます。個性的な他者の自己・自我構造と思春期の自己・自我構造の相互関係により、思春期の自己像・他者像は非常に不安定な一面があります。


■こころ17
日本神話と精神医学-17- 「近親相姦」
 イザナギとイザナミは兄妹と考えられています。兄妹が夫婦になるのは現代社会ではタブーですが、古代では母親の違う兄妹の結婚はタブーではありませんでした。兄妹婚はギリシャ神話のゼウスとヘラの場合や旧約聖書のアダムとイブなどもそうです。アマテラスとスサノヲも姉弟であり、五男神と三女神をえています。
 普通は近親相姦はタブーであり、世界秩序の混乱のもとでありますが、混乱によって世界を産み出す働きがあるとも考えられています。文化などの秩序が創造される過程で近親相姦は不可避とされますが、逆に一度秩序が成立すると不可避のタブーになります。精神分析にも有名なエヂプスコンプレックスがあり、父親を殺して母親と結婚したエヂプス王が最後に不幸になるという話があります。このコンプレックスは子供が母親の愛をとりいれながら父親と闘いのりこえようとする精神を表していますが、何故近親相姦と尊属殺人なのか深い意味があります。現代タブーになっているということは秩序の混乱のもとということですが、秩序の混乱のなかに創造のエネルギーがあるということです。新しいはあらたしいともいわれ、あれるやあらあらしいと関係し、乱れて始めて新しいことがおこるということです。その後湧いて、割れて、分かれて始めて分かってくるということです。

思春期・青年期医学13 ―思春期危機(3)― 自我障害2
 自我漏洩症候群には自分の体の不快なにおい(口臭、腋臭、おなら、便臭)が自分の体から漏れて相手に伝わって、相手が自分のことを不快に思っているという自己臭妄想症があります。普通は自分の体の中に自分の考えや心や身体感覚などの精神現象があると判断されています。これらの精神現象は自分のものとして感じられます。体
のにおいは自分のものであると同時に相手にかがれるものであります。従って自己所属感はほかの出来事よりも弱く、思春期の自我機能障害があるときには容易に変調を来すでしょう。自分のにおいが臭くてもれて、相手が不快な思いをするかどうかは非常に主観的な判断によります。臭いかどうかは個人の感覚判断と相手の感覚判断の相
互作用によります。自分が臭いと思っても相手には臭くなかったり、相手が臭いと思っていても自分は感じなかったりします。自分のにおいが伝わっているかどうかも、相手の態度によって自分が判断します。結局は自分のにおいを自分がどう感じるか、相手の態度を自分がどう感じるかによります。この自分は体質・気質と今までの経験特に人間関係により決まります。自分のにおいを臭いと思うことは自己否定的感情であり、自分の臭いにおいが相手に伝わって、相手が不快に思っていると感じることは相手が自分を不快に思っているという感情です。他者によって自己が否定される感情です。生きてきた経験のなかでこれらの否定的感情が自分に生じてきたということです。


■ こころ18
日本神話と精神医学-18-  「同性愛」
 ヤマトタケルには男性的特徴だけでなく女性的・同性愛的特徴が存在します。西征中、クマソタケルを征伐する時にヤマトタケルは女装してクマソタケルに見そめられます。一種の性倒錯的側面といえるでしょう。さらにクマソタケルを殺すときには、お尻から剣を突き刺しており同性愛的行為を無意識的に象徴している可能性があります。精神分析では通常はエヂプスコンプレックス期において無意識的に父をのりこえようとしますが、同性愛心理には母との葛藤に加えて父と闘おうとせずに父に好かれようとする傾向があります。このように母親との葛藤や父親の強さのあり方は本人が父に抵抗したり乗り越えようとする心理を弱めてしまうというコンプレックスと関係しているでしょう。ヤマトタケルの場合も父景行天皇による西征・東征という無理な命令に反抗することなく従順に従うという一面があります。
 さて、黄泉の国にいるイザナミを慕うスサノヲノミコトが高天原に上ってくる時にアマテラスオオミカミはスサノヲが高天原に攻めてくると思って男性のように武装して迎えます。結局スサノヲの乱暴すなわち背景にいる黄泉のイザナミの太母性に呑み込まれて天の岩屋戸に隠ってしまいます。その後女性性の象徴であるアマノウズメなどの働きにより、天の岩屋戸から出されて真の女性に再生するという一面があります。その話においては女性の男性性が一度太母によって消滅して始めて真の女性性が出現するということです。女性は幼児期の男性性を太母との対決で一度なくす必要があること示唆しています。

思春期・青年期医学14 ―思春期危機(4)― 恐怖症
 視線恐怖、醜形恐怖、赤面恐怖、対人恐怖も思春期の自我障害と関係しています。視線、醜形、赤面は人間関係におけるコミュニケーションの問題であり、そのうちの視覚機能と結びついています。
 視線恐怖では自分の視線が相手に不快感を与えていると感じて、人をまともに見ることができなくなります。自分が相手にとって不快な存在だという深層意識に加えて、人間関係の問題が視覚機能のうちの視線に集中し、視線を気にすればするほど視線恐怖が強くなります。
 醜形恐怖は自分の顔・形が醜く、人が不快に思っていると感じる病態であり、醜くないといくら説得しても受け入れない醜形妄想にまでなったりします。こうなると何度も手術を受けたりします。この症状も見え・形という視覚機能と結びついています。
 赤面症は対人関係において、恥ずかしいと感じて顔が赤くなってしまうことですが、赤面恐怖になると自分が注目されて照らされて照れてしまい顔が赤くなってしまい、そのことを恐れるあまり、人とコミュニケーションがとれなくなってしまいます。この場合は他人の視線を気にします。
 人間関係は見えや態度だけではないのはあたりまえですが、見え・形は精神やコミュニケーションにとってかなり重要な要素であります。これらの恐怖症の場合、視覚機能に関心や注意が集中する一方、聴覚・嗅覚・その他の全人的感覚すなわち共感覚・共感が弱くなり、安心感や信頼感がもてなくなります。逆に深層意識下で安心感や信
頼感が充分にないために、目立ってくるのが視覚機能の見えや見栄えや姿・顔・形であります。
 対人恐怖は特にこの無意識的安心感・信頼感の欠如と関係していて、恥意識のある日本人特有の症状と思われます。
 以上の恐怖症においては自我機能が対人関係や自分の中心に位置するのではなく、視覚という精神機能の一部に偏ってしまった結果起こってくる病状であり、思春期という自我機能がいまだ定まらない時期に必然的に多発します。

■ こころ19
日本神話と精神医学-19- 「黄泉の国・根の国」
 黄泉の国は死者の国と考えられていて、根の国は死者の国とは少し違った異界と考えられています。これらの世界は高天原(天空)、葦原中国(地上)、黄泉の国(地下)、木、根などのように垂直的構造で捉えられています。一方根の国は海の遙か彼方のイメージもあり水平的構造としても捉えられています。黄泉の国ではイザナミが
ヨモツヘグイをしてしまった後だったので、イザナキが迎えに来ても現世に戻れなくなっていました。しかしイザナキの熱意にうたれイザナミが黄泉の国の神と現世に戻る相談する間、私をみるなとイザナキに言っていたのに、イザナキがイザナミを見てしまった結果二人の世界は黄泉平坂で生と死に分かれてしまいました。イザナミの姿
は腐って、蛆がたかっており、体の各所には雷が生じていました。一方根の国はオホナムチがスサノヲに蛇や百足、蜂などによる試練を克服して葦原中国の大国主になった契機の場所です。このように日本神話では生に対する世界は死と再生の二つの観点から成り立っています。黄泉はまさに死の世界であり、根の国は非常に厳しい逆境の
世界・境界的辺縁的世界であり、心の再生にも黄泉の国と重なってはいますが少し異なっている根の国のイメージが重要と思われます。

思春期・青年期医学15 ―思春期危機(5)― 不登校・引きこもり
 近年、学校に行かない・行けない生徒、会社に行けない成人、ひきこもったまま対人関係は家族だけしかないという若者が多くなってきて社会問題となっています。精神分裂病やうつ病の症状の場合もありますが、このような病気と違って何年間もときには十数年間も引きこもったままいます。ひきこもりは精神分裂病(進行性に徐々に
意欲が落ちてきて、生活の乱れや奇異な行動・態度が目立ってくる)との鑑別が難しい例もあり、簡単に診断できないこともあります。不登校・引きこもりの場合は会話が了解可能であり、態度・行動に奇異なところが少ないのですが、社会や他人を避けていたり反感を持っていたり、社会とか他人とか人生に興味や意欲を感じなかったり
して、不規則な孤独な独自な生活になったりしています。睡眠や食欲は不規則ながらもとれるようです。これらの若者の一部は家庭内暴力を引き起こしたりします。彼らの要求や目的、自己が社会のなかで実現しにくい状況であり、実現するための困難を克服出来ない傾向があるのでしょう。
 自己イメージが対人関係とか社会のなかで傷つくために、傷つきを避けるために家庭に閉じこもっている人もいます。(自己愛人格)
 対人関係を煩わしく感じたり、人間嫌いであったり、他人と一緒にいても楽しくないので他人を避ける人もいます。(回避型人格)
 意欲があまりなく、消極的で他人に付いていけないまま閉じこもってしまう人もいます。(無力型人格)
 自分一人では積極的に生きていけずに他人の後を付いていきますが、結局違和感を感じて家庭や両親に依存してしまう人もいます。(依存型人格)
 このような性格傾向は体質・気質に加えて家庭環境や学校生活などの対人関係などによって形成されます。いじめられなどの体験などはかなり大きな要因と思われます。解決の一方法は彼らの性格に応じて自己実現していける場を確保して、彼ら自身が再び人や社会へ関わっていく意欲を持ち始めるための関わりを周りが見つけだすことで
す。精神力・気力・根性を持ち出して意欲をもってもらえるなら簡単ですが、そんなに人の心への働きかけは簡単ではありません。

映画の話しあれこれ1 「ホワット ライズ ビニース」
 What lies beneath?(ホワット ライズ ビニース)は女性主人公クレアの経験した心霊・怪奇現象を織り交ぜながら、信じていた夫により殺されかける恐怖を描いた映画である。クレアは引っ越してきた自宅で怪奇な現象(不気味な音がしたり、ドアが勝手に開いたり、女性の顔が湖の水面にみえたりする)に恐怖を感じて一人で悩む。隣の家が怪しいと思ったクレアは隣の主人がその妻を殺したのではないかと疑って数学者の夫ノーマンに訴えるが、事実ではないことがわかり精神が不安定になる。怪奇現象がエスカレートしてクレアがその意味を調べるうちにある失踪した女性が浮かんできて夫と浮気していたことがわかる。一年前にそれが原因でクレアは事故をおこし、そのことを思い出せなくなっていたのである。その後その女性は行方不明になっており、夫がその女性と関係していた証拠を湖に捨ててあったのをクレアは発見する。クレアは夫がその女性を殺したのではないかと疑い、とうとう夫が殺したと感づいてしまう。自分が殺したことを感づかれた夫は今度は妻を殺そうとしたが、その女性の亡霊も出現して最後には死んでしまう。
 クレアは事故により記憶喪失しているが、心理的要因により記憶がなくなることは充分考えられる。クレアのような不安や葛藤が背景にあれば幻覚を見たともいえるが、映画では心霊現象として描かれている。夫ノーマンは最愛の妻を守るために浮気女性を殺したが、最後に地位や名誉を守るために妻クレアを殺そうとした心理には尋常ならざるものがある。ノーマンにとっては愛している妻の命が地位や名誉よりも軽いのである。妻への愛はわかるとしても人を殺してでもその愛を保とうとする心理とあわせて、非人間的情性欠如者と思われる。題名が暗示しているように、外見上幸せを求め、温厚そうに見える知性あるノーマンの心の底には自分の欲望のためには殺人をも厭わない冷たい心理が横たわっているのである。心霊現象以上に不気味なのはまさしく人間である。
 なお心霊現象は自然現象を越えているので科学ではありえないが多くの人の関心を集める傾向がある。信仰に近い面があるが対象がはっきりしていない。多神教的側面があるが、大系化しておらず、個人的出来事・感情と深く結びついた原始的信心にも近いと思われる。ときには幻覚や妄想的出来事、錯覚・空想とも結びついている。生き霊や死霊、魂などの言葉とともによく使われていて、奇妙で怪しい雰囲気を醸し出し、この映画の不気味な部分をうまく引き出していると思う。


■ こころ20
日本神話と精神医学-20- 「知恵比べ」
 日本神話において知恵は狡猾さやペテンにつながる功利的なものとして描かれています。稲羽の素兎神話では陸棲動物のうさぎが水棲動物のわにを騙して仲間の数比べをしようと言って島から陸までわにを並べさせその背中を飛び渡って数えながら陸に向かいましたが最後の一歩の所で自慢げにわにを欺いたことを話してわにに皮を剥が
されます。
 ヤマトタケルはクマソタケルを征伐するときに女装して相手に近づいたり、イヅモタケルを征伐するときには相手をわざと水浴にさそってヤマトタケルが先に水からあがってイヅモタケルの真剣の太刀を木刀に取り替えました。
 知恵には知能に加えてその人の価値観や人生観、世界観が入っています。稲羽の素兎の場合狡猾な考えが成功しかけたとき、つい油断をしてしまう傾向とか狡猾さやずるさは最後まできっちり締めくくりにくいことを表しています。最後までしめくくるには相当強い信念あるいは価値観が必要であり、つきつめれば人との絆の深さを必要
としています。ヤマトタケルの場合この狡猾さは英雄の条件の一つになっています。英雄は秩序の破壊と創造という役割をになっていて知恵も含めた英雄の価値観は新しい秩序にも脅威となり、否定的側面が目立ってきます。
 このように日本神話では知恵は否定的側面と結びついており秩序と比べて重視されていません。日本が物まね上手であったり、猿知恵と揶揄されることと関係していると思われます。

―精神疾患一般(1)― うつ病 1
 うつ状態は抑うつ感、不眠、食欲不振、全身倦怠感、希死念慮などのうつ症状を訴える状態です。うつ症状はうつ病以外にも種々の疾患で出現し、うつ病と区別してうつ状態と言います。心理的原因が考えられる心因性疾患(心因反応、神経症)と違って、うつ病は遺伝的要因も関与していて内因性、身体因性疾患と考えられています。
うつ病やうつ症状を引き起こしやすい病前性格も比較的はっきりしていてメランコリー性格、執着性格と言われています。
 うつ病は精神分裂病とあわせて2大内因性精神疾患と言われてきましたが、原因がはっきりしない内因性というより、身体因性として考えられつつあります。うつ病には重症から軽症、定型から非定型まで種々の病態があります。最近は軽度のうつ病、軽い抑うつ状態の患者さんも精神科・心療内科を受診するようになっています。
 軽いうつ病は心の風邪ともいわれていて多くの人がかかり、しかも治りやすい疾患と考えられつつあります。日本人は外国人と比べて、真面目で几帳面、他者配慮的で責任感も強い執着性格の人が多く、うつ状態になりやすいと思われます。何故この執着性格がうつになりやすいのかは少し考えれば分かります。執着性格は他人から見て
評価の高い立派な良い性格です。評価が高いということは本人自身が評価されるだけのことをしているということであり、他人よりも本人が負担を背負っているということです。本人の負担、重荷が大きくなりすぎたり、年齢の変化により重荷を背負いきれなくなると重荷で体が動かなくなるということです。

映画の話しあれこれ2 「ハート オブ ウーマン」
 ラスベガスのダンサーである母親とその仲間に育てられたニック(メル・ギブソン)は女性達にチヤホヤされ、甘やかされてきた。男性的であるよう求められたニックは女性の心は読めていて女性にもてると勘違いしている。そういう性格を生かして広告会社で男性用の製品宣伝のクリエーターをして、それなりの成功を納めてきた。
 しかし現代は女性が着実に社会で実力を発揮し始めており、女性の本当の気持ちを理解できなければ宣伝の仕事はほとんど出来なくなりつつある。女性の本当の心がわからずニックは妻と離婚し、子供からも嫌われている。ニックの会社も女性向け製品の宣伝で実力を発揮してきた他社の女性クリエーター・ダーシー(ヘレン・ハント)
を引き抜き、ニックの上司とした。時代に取り残されつつある男性ニックと時代の波にのる女性ダーシーとの関係がこの映画のポイントである。
 感電事故を契機にニックは今までまるでわからず勘違いしてきた女性の心の声が聞こえるようになったのである。精神医学的には幻聴であるが精神疾患の患者さんの幻聴は悪口などの被害性の幻聴が多い。ニックの場合は幻聴といっても被害性の悪い内容とは限らない。このような非現実的なことがおこれば人間は不安になり混乱する。
ニックもカウンセラーに相談するが、この能力は自分にとって有利であると理解したニックは立ち直る。仕事のライバル・ダーシーの心も含めて女性達の心を読めるようになったニックは仕事でも成功し、ダーシーの仕事も立場も奪ってしまう。ニックの仕事が成功したのはダーシーの考えていることを読みとって実現した偽りのものである。見かけと違って、ダーシーは心の弱さをもちながらもけなげにも仕事に打ち込んでがんばっており、心も素直であることを知ったニックは自分を反省しダーシーを心から愛するようになる。真面目に頑張る姿は人の心をうつ。本当の愛も相手の真面目な心を理解して自分を反省出来て始めて生まれる。

| | Comments (0) | TrackBack (0)